円城塔『文字渦』と中国古典
中国古典学という、「面白そう」より「難しそう」というイメージが先行する分野を研究していると、この分野の面白さをどう伝えればいいのか、そもそもその「面白さ」にどういう価値があるのか、といったことを考えることがある。これは、いわゆる「文系は役に立つのか論争」的な観点から本格的に論じるべきテーマではあるけれど、今回の記事では、せめて友人に自分の信じる面白さを伝えたい、ぐらいの私個人の(卑近な)感情から書いていきたい。
中国学の面白さを伝えるために、まず中国古典の物語をそのまま武器にする方法がある。伝記や王朝物など、脚色や想像を交え、中国古典のストーリーの面白さを再利用する作品は非常に多い。ゲームや漫画も中国古典を題材に取るものは多い。ただ、「物語としての面白さ」だけを求めるのではなく、そこに中国学的な要素、いわゆる学術研究的な要素を盛り込むにはもう一工夫必要になると思う。
そのために、中国古典の翻訳や研究書をそのまま読んでもらうという方法もある。中国学の面白さを分かって欲しいのなら、その成果を見てもらうというのは分かりやすい。しかし、研究成果そのものを読むのは専門家でも一苦労で、そこから裾野を広げていくにはまだ距離がある。
そこで、専門知識が無い人にも読めるような概説書や、丁寧に一から書かれた研究書の役割が生まれてくる。ただ、こうした本はもともと興味がある人・勉強したい人には読みやすいものの、そうでない人が新しい好奇心を刺激されるようなものになっているか、というのは別問題である。
文学の力を借りて
さて、円城塔の『文字渦』(新潮社、2018)は、こうした課題を突破して、新しい形で中国学の魅力を伝える本であると思う。本作は、ジャンルとしては小説に分類されるが、中国古典のストーリーをそのまま小説にしたものではなく、中国学のモチーフを巧妙に利用し、再解釈しながら小説に落とし込んでおり、その終着点は中国学より遥か先に置かれている。直接的に想起されるのはボルヘスの『伝奇集』であり、壮大なモチーフと遠景から細やかな物語が現れて、ぽかんと宙に浮かんだまま閉じるような、美しい短編が続く。
その意味では、ただ「中国学」と絡めて感想を書いても、この作品の主題を説明し尽くすことはできない。ただ今日のところは、先に述べた課題を踏まえ、中国学という角度から本作の短編について考えていきたい。
闘字
「闘字」の一節にこうある。
説文解字は、文字を部首によって分類したが、部首の順序は文字たち自身に任されており、部の内部でも独自の秩序を採用している。説文解字の内部では、文字たちの棲む世の道理によって、一つの宇宙が組み上げられる。
従って、文字による創世から循環までを描いた説文解字中に字を探すのは、世の成り立ちを追跡する作業となり、説文解字の支配する世に暮らすことと同義である。……説文解字に分け入るためには、ひたすらこの宇宙の仕組みに同化していくしかないのであって、最終的に一本化して宇宙内部に住み着くよりない。
p.65, p.67
後漢の時代に作られた、最古の漢字字書である『説文解字』は、現代の漢和辞典と同じく「部首」ごとに漢字が配列されている(というより、現代の漢和辞典が『説文解字』の系譜を引くと言うべきだが)。そして『説文解字』では、この部首の配列順が単純な画数順でなく、一つの世界が構成されるように意味のある順序で並べられる。ここから「『説文解字』は独自の秩序から成り立つ一つの世界である」ぐらいのレトリックはすぐに思いつくが、さらに「文字たちの棲む世の道理」や「宇宙内部に住み着くよりない」といった表現まで進み、更にそれがただの比喩でなく本書の大きなテーマを形成するところに、本作の妙味がある。本作において文字が「棲む」という表現はただの比喩ではなく、まさしく文字通りの意味で、文字自身が意思を持ち、動き出し、変化し、「棲」んでいるのだ。
緑字
続いて、膨大な文字データを含むテキストファイルを探索すると、仏典の文字列と、その前後に謎のプログラムのコードが発見される「緑字」の一節。
最初の突破口となったのは、金光明最勝王経からなる諸島と、華厳経からなる諸島だった。この二つの経典は、ただの金光明最勝王経と華厳経ではなく、「紫紙金字最勝王経」と「紺紙銀字」なのだというのが森林の出した結論だった。というのは、機械の言葉による指定が、文字データとその配置だけではなくて、文字を印刷する素材や、紙の色や質にまで及んでいることがわかったからだ。……経典の島々は、国宝「紫紙金字最勝王経」を再現するデータであり、重要文化財「紺紙銀字華厳経」を再現するデータであり、その素材の作成方法を示すデータだった。
pp.46-49
この短編からは、書誌学・版本学研究において、学者が古いテキストに一字一字向き合っている情景を思い起こす。しかし、これをデジタル世界の内部の出来事としてストーリーに落とし込むところに円城塔らしさがある。ここは、二進法で記されるデータの世界の中に、そっくりそのまま旧本の姿が保存されいつでもアウトプットできる世界だ。しかし、話はそう単純ではなく、見るたびに中身が書き換えられていくこと、そして文字が意思を持って動いていく世界観が提示されている。他の短編では、文字は伝えられる媒体によって意味が変わり得るのではないかという示唆もある。本作のテーマの一つには、文字がそれ自体で意味を伝えるのではなく、その物質的な媒体(紙・フォント・データなど)を合わせて意味を伝える、というテーゼがある。
ちなみに私は「紫紙金字最勝王経」の現物を博物館で見たことがある。本当に美しい本である。
梅枝
次は「梅枝」から、本書で時おり登場してガイド的役割を果たしている境部さんの台詞を引く。
「将来、芭蕉の作品が滅んでしまって、そうだな、境部本『月の細道』だけが残されていたら、やっぱり芭蕉は月に行ったってことにされるんじゃないかな。その頃にはもう、俳句という形式も忘れられていて、人類は月に進出して、月の山を眺めている。人類が地球起源だということさえもう、専門家以外は知らないわけだ。『月の細道』はそうだな、一見ごくごくふつうの旅日記の形をとった句集なんだけど、読み進めるとどうもこれは月を進んでいるらしいとわかるようにできている」
p.102
ここに作者Aと読者Bがいて、文章Xがあるとする。まず、AとBが同じでも、文章Xが変わった場合、当然伝えられる意味内容は変化する。次に、AとXが同じでも、読者Bが変わった場合、Xの受け取り方が変化するわけで、伝えられる意味内容はやはり変化する。では、BとXが同じで、作者Aが変わった場合にはどうなるか? やはり、意味内容は変わると考えるべきだ。これを実験したのが、ボルヘスの「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」であった。
本作「梅枝」もこのことを語っている。円城塔の場合は、AとBとXの他に、文字媒体αという変数を加えて、αが変わっても、やはり意味内容が変わるということを本作を通して伝えていると言えよう。「梅枝」は「昔、文字は本当に生きていたのじゃないかと思わないかい」(p.104)という言葉で終わるが、これも本書全編に共通するテーマである。
新字
続いて、外交使節として訪中した一人の人物に焦点を当てる「新字」の一節。
しかし境部には、あの楷書という字体は、文字というより新種の呪具のように見えるのである。およそ人間らしさというものを省き捨てて完全に秩序に従わせることで、書く者に不自然な手の動きを強い、刻する者に無茶な鑿の使い方を強いるあの字形こそ、天子が地上を統べる宣言として相応しいのではないかと思う。
p.124
呪詛としての文字。不自然で機械的、記号的な字であるほどに、却って呪詛的な力を感じさせるというのは、いわゆる文字学とは一味違う考え方。文字を直接に呪詛的な力を持つものとして捉える発想は、道教の「符」を想起し、本書でも別の箇所で登場する。
本作は文字の呪詛性を正面から扱う作品で、「文字を書くとは、国を立てることである」(p.129)と結ばれる。文字を書くということは、それ自体がシステムを生む行為である。人が生み出した文字が、文字としての力を持ち、社会構造を生み出していくことをよくとらえた短編だと思う。
微字
最後は本書の枠組みの一つを提示している「微字」の冒頭。
本は、表紙を下にして、順に重ねていくものだ。
古い頁ほど下に積もるのが自然の道理というものであり、累重の法則として知られる。元来は水平をなすものだから、縦に並んだ本たちは地殻変動の産物である。歴史は褶曲により歪められ、撓曲により断絶が仄めかされることになる。
p.133
こういうちょっとしたところからも、縦向きでなく横向きに本を置くのが本来である線装本(糸で綴じた中国の古い本)のあり方を想起する。こうして図書館に地層学を持ち出して導入を作り、ここから本作の短編を有機的に結合していく。本作が唐突な飛躍を交えて本書全体を統合していくさまは、ボルヘスの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の後半の飛躍を思い出すところだ。
最後に
『文字渦』は、特に中国・東アジアを中心としながら、歴史学・注釈学・版本学・校勘学・文字学・辞書学といった研究分野の要素を存分に含んでおり、その学問体系をそのまま物語として利用したような作品である。他の円城作品が、抽象的すぎて、またSF的すぎて楽しめなかったという方でも、本作なら具体的なストーリー展開がある話が多く、比較的楽しみやすいと思う。
よく円城塔と並び称される小説家に伊藤計劃がいる。伊藤計劃の場合は、ディストピア世界を描いて現実の社会を映し出し、そこへの殺意を描く方法としてSFを用いているという方向性があると思う。一方、円城塔の場合は、自分の頭の中を最大限具現化するためのおもちゃ箱としてSFがあるように感じる。円城作品は物事の本質をよくとらえていると思うが、ともすれば高雅な遊戯としての、いわゆる「ノンポリ」的なSFという方向に進んでしまうのは弱点として挙げられるだろう。私としては、そうならないような読み替えを試みていきたいと思う。
言及できなかったが、「文字渦」は秦朝の職人の話、「天書」は王羲之が主人公であったりと、中国史を直接の舞台としており、その読み替えと作り変えの超絶技巧には感服されられる。この他に「種字」「誤字」「金字」「幻字」「かな」を合わせて、計12篇。篇名を見るだけでも、何だか楽しげではないだろうか。