閑閑空間
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反戦歌としてのブルーハーツ「リンダリンダ」

2024年12月(元記事を改稿)

 昔好きだった曲や小説などに触れると、「なるほど、この作品のこういう部分が自分の琴線に触れていたのか」と改めて実感することがある。私にとってその原体験となったのがthe pillowsの「ストレンジカメレオン」である。

 結論を先取りすれば、私はこの曲を、主人公がマイノリティとしての自分のアイデンティティを引き受け、不退転の決意を表明する曲として聞いてきた。以下でそういう解釈を具体化することを試みていきたい。

I wanna be your gentleman
変われる場所を探しに行こうか 誰かみたいに
I wanna be your gentleman
隠れる森を目指してみようか 痛くないように

緑色のカメレオン

 誰かみたいに変われる場所。痛くないように隠れる森。主人公は、いま生きているこの場所に希望が持てなくて、変わること、隠れることができる他の場所を求めている。「変わる」と「隠れる」というのはとても象徴的な言葉だ。私は、どちらも自分の本来のアイデンティティを棄てて、周りに同化することを指す言葉としてとらえておきたい。

ピンク・青色のカメレオン

 しかし主人公は分かっている。上手く「変わる」ことのできる魔法の場所なんてない。周りに同化して「隠れる」こともできない。なぜなら主人公は、「まわりの色に馴染まない、出来損ないのカメレオン」なのだから。この一段の「探しに行こうか」「目指してみようか」という投げやりな口調の問いかけには、「どうせそんな選択肢はない」という主人公の諦観と、「そんな選択肢は取らない」という意思が現れていると思う。

 もう一つ考えなければならないのは、「your gentleman」の「your」とは誰なのかという問いだが、これについては最後に書くことにする。

 この「出来損ないのカメレオン」がどのような存在か、二番の冒頭でも語られている。

I wanna be your gentleman
上手くちぎれてくれない尻尾はトゲトゲで
I wanna be your gentleman
引っかき傷は癒えないのさ 治らないんだ

 切りたい「尻尾」が上手くちぎれてくれない。それどころか、その尻尾には棘があって、自分を傷つけてしまう。そしてその「引っかき傷」は癒えることはない。この歌詞も、マイノリティとしての生きづらさを感じる主人公の痛みをとてもうまく表現していると思う。「引っかき傷」という言葉は、絶えず受けるマイクロアグレッションとしてとらえることもできる。また、尻尾を切るという表現を、マイノリティが身体改変を試みることの比喩として解釈することもできるだろう。

 そうして迷い苦しんでいる主人公は、本当の自分で生きられていない以上、まだ自分の本当の人生が始まっていないように感じている。

「終わらないプレリュード奏でて生きてゆくみたいだね」って
僕ら笑う 死んでるように

 プレリュード(前奏)がずっと続いていて、メインのパート(本当の自分としての人生)が始まっていない感覚。そんな時に出てくる笑いは、本当の自分が生きて笑っているわけではないのだから、死んでいるようなものにしかならない。

浮き沈みしながら 向こう岸へ辿り着いた後を
考えてる 今でもずっと

 似た歌詞が二番にもある。

「たぶん もうすぐさ きっと」なんて息を止めたまま
どうでもいい行列に並んでもみた

 この二つの歌詞も、本当の自分になる前に、もがき苦しんでいる主人公の状態をよく表している。苦しみながら川を渡っている最中、川を渡り切れる保証もないのに、渡り切った後のことを考えてしまう。水中で息を止めている時に、どうせ自分を救ってくれるものではないのに、どうでもいい流行り物や、大事ではない何かに手を出してしまったりする。そんなことをしても何も変わらないのに。

 この曲の歌詞の白眉は以下の部分だと思う。

たとえ世界がデタラメで タネも仕掛けもあって
生まれたままの色じゃ もうダメだって気づいても
逆立ちしても変わらない 滅びる覚悟はできてるのさ
僕はStrange Chameleon

 残念なことに、世界はデタラメで、タネも仕掛けもある(=システムが存在する)。生まれたままの色では、マジョリティを優遇するシステムに抑圧を受け、苦痛を味わうことになる。そうして主人公は滅びてしまう(死んでしまう)のかもしれない。

 それでも、逆立ちしたって自分の色は変えられないし、変わらない。だから「滅びる覚悟」を引き受けて、「Strange Chameleon」としての自分を宣言する。このストレンジなカメレオンは、周りの色に馴染んで埋没することができないのだが、「滅びる覚悟」を引き受けることで、「埋没できない」状態から「埋没しない」という意思に、そして「埋没してたまるか」という抵抗へと変わっていく。とても勇気をもらえる一段だ。

 だから、ストレンジ・カメレオンとしての自分を認める決断を下すことは、決して悲しいことではない。

勘違いしないでね 別に悲しくはないのさ
抱き合わせなんだろう 孤独と自由はいつも

 自分はストレンジなまま「変われない」と認めることで、社会から疎外されることを引き受ける絶望がやってくるが、それは同時に「変わらない」自分を肯定するという意思表示でもあると思う。そうして主人公は孤独と自由を手に入れ、解放される。

もしも全てが嘘で ただつじつま合わせで
いつか慣ついていた猫は お腹すかしていただけで
すぐにパチンと音がして 弾けてしまう幻でも
手の平がまだ暖かい

 すべてが嘘で、幻で、自分に懐いていた存在は、自分そのものではなく、自分が持っていた物に惹かれていただけだったのかもしれない。でも、そんな世界の中でも、自分の手の平はあたたかくて、自分が確かに生きていると分かる。

 では、主人公がマイノリティとして生きていく決意ができたのは何故なのか。そこに「君」の存在が関わってくるのだと思う。

君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで
まわりの色に馴染まない 出来損ないのカメレオン
優しい歌を唄いたい 拍手は一人分でいいのさ
それは君の事だよ

 「君」とは誰か。直接的には、「本当の自分」を知った上で受け入れてくれる存在、あるいはそう思わせてくれる存在を指すと考えたい。関係性は何であっても良い。友達、家族、親友、恋人、別になんでもいい。または推しのアイドルや、二次元のキャラクター、または動物なのかもしれないし、自分自身なのかもしれない。具体的な一人を浮かべても良いし、どこかでこの曲(=主人公のメッセージ)を聞いている「あなた」を比喩的に表現したと解釈することもできる。

 マイノリティとしての本当の自分を知っている「あなた」、あなた一人の拍手があればそれで良い。他の時間はほとんど嫌いだけど、あなたがいるから生きていられる。あなたのためにこのメッセージを届ける。そんな「あなた」は、身近な存在なのかもしれないし、遠くの誰かなのかもしれないし、主人公の想像の中にしか存在しないのかもしれないけれど、とにかくそういう人がいれば、手のひらがまだ暖かい。生きていける。

 そして「I wanna be your gentleman」「優しい歌を歌いたい」という言葉には、今度は他の誰かにとって、自分が「あなた」のような存在―その人の孤独に寄り添える人―でありたいという願いが込められていると思う。

恐いモノ知らずで 時代ははしゃぎまわり
僕と君のすごした ページは破り去られ
歴史には価値のない 化石の一つになるのさ
君と出会えて良かったな
Bye Bye 僕はStrange Chameleon

 時代と社会は横暴で、好き勝手に暴れまわる。主人公たちの生き方は相手にされず、亡き者にされ、記録もされない。マイノリティの歴史には価値がないとされ、顧みられない化石になって、地層の中に埋まっていく。

 でも、「化石になる」という言葉は、別のとらえ方もできる。誰も気に留めないかもしれないけれど、確かに生きた証は残ると言っているわけで、その化石は、確かに未来の誰かが拾い上げるかもしれない。孤独を歌った一段だけれども、時を越えた連帯を歌っているようにも感じられて、とても力強い。

the pillowsというバンド

 もちろん、以上の内容は「私はこういう曲として受け取りました」ということを述べただけだ。山中さわおとthe pillowsが実際にこの曲に込めた思いというのは、またの別のものとしてあるはずだ。ちなみにWikipediaには、テレビ番組や雑誌のインタビューを出典に挙げながら、以下のように書いてあった。

 6thシングル「ストレンジ カメレオン」は、大衆的な音楽を目指すも失敗した自分たちを「まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」とたとえ、それまでthe pillowsが築いてきた音楽やスタイルを大きく否定するものであった。そのため「ストレンジ カメレオン」の発売は、反対するレコード会社とメンバーの対立の中、半ば強行的に行われた。(the pillows - Wikipediaより、2024/4/6閲覧)

 これを読むと、全然違う話ではあるが、実は上に書いてきた自分の解釈とそれほど遠くないとも思う。つまり、業界で生き残るためにそれまでまとってきた(バンドとしての)アイデンティティを捨て去って、新しいアイデンティティの宣言をした曲(そしてそれが業界ではマイノリティの音楽である)という意味で、共通しているところがあるからだ。少なくとも、当時の山中さわおが、相当に迷い苦みながらも、自分の決意を素直に歌い上げたものであることは確かだと思う。その素直な心情の吐露に、いろいろな形で自分の感情を重ねられるから、多くの人に愛される曲になったのだろう。

 最後に付け加えておくと、the pillowsの他の曲にも、こういう読み方をさせる歌詞がちょこちょこある。「足跡の無い道を選んでずいぶん歩いたな 幼い夢傷ついても今も眺めてる」「千年後の雨になって 僕らは降るだろう 太陽とも解り合って 虹を出せるかな」(雨上がりに見た幻)、「光に群がってお揃いの夢を見ても 居心地悪いだけ」(My Foot)、「昼も夜もない 黒い森で 勇敢なカメレオンが 捨てた羅針盤を睨んでた」(I think I can)など。いわゆる「厨二」的なセンスだと感じる人もいるのかもしれないが、そんなことはどうでもよくて、本人たちがそこに誇りをもって表現していることが何よりも重要なのだ。