中村一義は「理想」を手放さない
中村一義に出会ったのは中学生の頃だ。2010年前後、Twitterで知り合った名古屋在住の自称「おばちゃん」が、オススメのCDを段ボールに詰めて送ってくれた。fishmans、サニーデイ・サービス、くるり、スーパーカー……「あの頃」を彩ったバンドともに、中村一義のアルバムがたくさん入っていた。内容は忘れたけど、丁寧な手紙も同封されていた。私はすぐそれらのCDに没頭し、その中でも中村一義は忘れられないアーティストになった。
私は1995年生まれ。世代的には、90年代のオルタナティブ・ロックの流行にリアルタイムで乗っていたわけではない。だから私は、上記のアーティストが盛り上がっていた当時の「熱」をきちんと共有しているわけではないことは、最初に断っておく。
そんな私が以上のバンドに抱くイメージを一言にするとこんな感じだ。ダウナーで、たぶん大麻的な(やったことないけど)「浸り」をライブで生み出すfishmans。周りに「地に足をつけている」ように見られたい、臆病な文学青年の独白を想起させるサニーデイ・サービス。シンプルであることの良さをバンドサウンドにもエレクトロニカルにも引き出したスーパーカー。次々新ジャンルに挑みながら、「完成品」としてのアルバムを出すことにこだわってきたくるり。
それぞれ個性があって、唯一無二の光を放っていると思うけれど、やっぱり政治的には「物足りない」と言わざるを得ない。特にくるりに顕著だと思うのだが、人々が都市生活で感じている生きづらさや、寂しさ、悲しさを絶妙な歌詞とメロディーで表現できるのに、それをその人の中で仄かに爽やかに、「一瞬の煌めき」で昇華させてしまう。社会に何か問いかけているように見えて、そこに表現されているのは「前向きな諦念」だ。確かに、生きていく上でそういう気持ちが必要になることもあるし、私もくるりの歌にたくさん救われてきた。でも、「これだけでは物足りない」と思ってしまうのも事実だ。(くるりの詞に思うことはまた今度言葉にしたいと思う。)
サブカル論を何一つ読んだことがない私が、ものすごく適当なことを言うが、こういうがまさに「サブカル」的なんだろうなと思ったりする。
中村一義というアーティスト
前置きはこのぐらいにして、中村一義の話に移る。中村一義の歌は、こうしたサブカルの政治的な物足りなさに対して、上記のアーティストとは一線を画す、独特のアプローチを取るものとして解釈することができると思う。
とはいえ、たとえば同世代の七尾旅人ほどには、中村一義からはっきり政治的立場を感じ取れるわけではないし、中村のインタビュー記事を読んでもそれは見えない。中村はブルーハーツのファンであることを公言しており、歌詞や歌の中にその影響が見えることもあるが、ブルーハーツほどにストレートに主張を明かすことはしていない。だから「抵抗の歌」を探す感覚で中村一義の曲を聴いても、ピンと来ない人が多いと思う。
それでも私は、中村一義の歌から、中村自身が人と社会に誠実に向き合ってきた軌跡を感じ取ってきたし、その解釈はそんなに間違っていないと思う。私が中村の曲から受け取ったことは、自分なりの理想を語ること、そして理想を掲げることに、何も怯える必要はないということである。
今回は、中村一義のソロ・プロジェクトである最初の三作「金字塔」「太陽」「ERA」を中心に歌詞を拾いながら、思ったことを書いていく。孤独と闘ってきた中村が仲間と出会った喜びを感じさせる「100s」や「OZ」といった中期以降の作品も好きだが、まずは中村の原点に迫ることから始めたい。
確かに生きている「僕」
中村一義の歌に登場するモチーフとしては、孤独ながらに確かに存在する「僕」、次に「僕」の呼びかけの対象であり「僕」の存在を感知している「君」(=聞き手)、そしてそれを取り巻く「社会」と、そこにある手放されない「理想」といったものが挙げられる。
まず「僕」の実存を確かめる歌として象徴的なのが、デビュー作『金字塔』の「ここにいる」だ。
小さな灯り消して、真っ暗にしてみる、
「ここにいる」(金字塔)
すると、解るよ。「僕は、今、ここにいる」。
小さな灯り消すと、みんな、何見える?
遠い先の自分が、ほら、今日に手を振る。振る?
周りの刺激から身を離してみると、今を生きる自分の実存が確かにここにあると分かる。その実存を確かめていると、遠い未来で生きている自分が今の自分に手を振っていることに気が付く。……いや、本当に振っているのか? この一段の最後の疑問符には、「未来でも自分は生きているのか?」という問いが隠されている。この疑問符は聴くだけでは分からず、歌詞カードを見ないと気が付かないのだが、「僕」の状態を考える上で決定的な意味を持つと思う。それは、「僕」が死を意識しているということだ。未来、僕が存在するのかは分からない。死を意識しながらも、確かに「僕」の実存がここにある。そんな「僕」は日々「宝」を探している。
ただの平々凡々な日々に埋まる、
「ここにいる」(金字塔)
宝を探す僕が、今、ここにいる。
どうだっていいや。カッコとか、そんなのは。
僕は、ただ、変わるここで暮らすんだ。
「僕」は変わっていく世界で暮らしながら、周りからどう見えるかは顧みずに、トンネルを抜けた際の「解放記念日」を目指して、「敵を越え行き」進んでいく。次作『太陽』の「日の出の日」にもこんな一節がある。
眠れないなぁ。じっとしていたって、消えるようで…ドアの向こう側へ
「日の出の日」(太陽)
瞳からどっと溢れ出た、あめ玉を置いていっても、気持ちは残りそうで…
暗いせいか、睡魔が呼ぶせいか、ボヤけたって、「たったひとつ」は、今、ここにある。
眠れない孤独な夜、消えてしまいそうな自分に涙を流す「僕」が浮かんでくるような歌詞だ。でも、「たったひとつ」はここにある、と中村は断言してくれる。同じく『太陽』収録の「歌」にもこんな力強い一節がある。
ちょい偽善者のような、僕なんかが言うのもなんだが
「歌」(太陽)
最後に見出だすものは、本当のことだぜい!
孤独な「僕」と、その「僕」が決して手放さない「宝」「たったひとつ」「本当のこと」があること。まず、中村一義の歌の原点はここにあると思う。
競争社会との決別
では、そんな「僕」を取り巻く社会を、中村はどうとらえているのか。
全てに溢れ、何かが無くて…
「始まりとは」(金字塔)
廻る輪の上を急ぐ点の中で、
廻る輪の上の点に乗って…
考える
理想も現実色に染まる。
で、そんなふうになっていく、時の中で、そう、金字塔の夢を見る。
全てがあふれ、何かが無くて、ぐるぐる廻る輪の上で急がされる社会。これは、いつも何かに急かされ、成果や生産性を競わされる、大量消費・大量生産の現代社会の比喩として受け取れるだろう。競いたくもないのに競わされる社会の中で、われわれは自分が何者なのか分からなくなってしまう。
頂上の方へ、なんで僕等、そんなに突き進むんだ、違うよなぁ~。
「謎」(金字塔)
僕ぁ、もういったい何者なんだぁ?
こうした社会の中で生きていると、確かな「僕」が掲げたはずの理想も、いつのまにか現実色に染まってしまう。理想が理想として掲げられなくなる時、そこには必ず切り捨てられる弱者がいる。
「排他的で軽くなる」って、だって、もう、重くなっちゃうのにね
「あえてこそ」(太陽)
もう、犠牲でさ、取り引きしたって、だって、
別れよりは出会いがいいなぁ
排他的になって「軽く」して、犠牲を作って「取引」する。マイノリティの権利運動の過程を思い起こさせる一節だ。こうして権利を与える人と与えない人を線引きし、「犠牲」と「取引」の繰り返しでできあがったのが、まさに今の社会ではないか。この曲「あえてこそ」は、「何度現実(いま)とやりあってたからって、一緒にいたい」という詞から始まる。現実とやり合う中で、切り捨てられるものを諦めずに、共存したいという意思がそこにある。
三作目の『ERA』にはこうした社会への不信を歌う詞が目立つ。
上には今も変わらずにある、排気の層が、
「1, 2, 3」(ERA)
視界、ずっと、ずっと、ずっと、ボヤかしてさ
ここは今も変わらない口論が、
視界、ずっと、ずっと、ずっと、狭くしてさ。
新世紀だろうがさ、根本は何も変わりゃしない。
「ゲルニカ」(ERA)
見てみなよ、独裁者が叫ぶ革命はエゴさ。
へいき?ハメられてんだ、見えない罠に。
虹の戦士(ERA)
また、『金字塔』の「永遠なるもの」では、社会のシステムに「飼われていた」自分を発見する。
急にね、あなたが言う…。「なんかに飼われてたみたい…。もう冗談じゃないし、泣けるし、笑える…。なんだかなぁ…」って。
「永遠なるもの」(金字塔)
理想が現実色に染まり、排他的に犠牲を作って、人を飼い慣らし、競争に駆り立てる社会。デビュー曲の「犬と猫」は、「僕」がこうした社会に背を向ける決別宣言として、またそうした社会の「ボス」を打倒する宣言として聴くことができる。
街を背に僕は行く
「犬と猫」(金字塔)
今じゃワイワイできないんだ
奴落とす、もう。さぁ行こう!
探そぜ、奴等、ねぇ…
もうだって狭いもんなぁ。
この曲の冒頭の「どう?」という呼びかけは、「奴等」を探し、「落とす」ための仲間を探しているようにも響く。ここで表現されている「僕」の決意は、「僕として僕はゆく」ことに他ならない。
のんびりと僕は行く。痛みの雨ん中で。
「犬と猫」(金字塔)
皆、嫌う、荒野を行く。ブルースに殺されちゃうんだ。
流行りもねぇ、もう…。伝統、ノー!
んで、行こう!ほら、ボス落とせ!
流行りにも伝統にも背を向け、「痛み」を感じながら、のんびりと、確かに歩みを進めていく。孤独な「僕」が、たった一つの理想を抱えながら、生き続けていることが歌われている。
呼びかけられる「君」
「僕」の「どう?」と呼びかけは、中村の曲の中でさまざまな形をとって響き、「君」に届けられる。つまり、中村の歌でいう「君」とは、聴き手である私たちのことだ。
「変わりたい」「何も変わんない」
「魔法を信じ続けるかい」(金字塔)
そんな論争に熱上げたぐらい、
君は自分自身の魔法を信じ続けるかい?
「魔法を信じ続けるかい」は、「失敗や後悔の存在も許せる」「無力だった日は充電していただけ」と聴き手を勇気づけながら、われわれの中に「魔法」が息づくことを教えてくれる歌だ。魔法の発動条件は、「単純なことを想う」こと。原則はいつもシンプルで、単純さの中に自分を支える魔法がある。
『ERA』の「ジュビリー」では、このことが「魔法」ではなく「溢れ出す世界」の中の「決して消えない場所」という言葉で表現されている。
そう、君ん中に、溢れ出す世界に、決して消えない場所が。
「ジュビリー」(ERA)
それを綺麗事って済ますなら、去って。君を祝いたいから。
私の中に広がっている無限の世界が、めまぐるしく移り変わっていく中でも、絶対に消えない場所がある。それこそ、自分が信じ続けるものであり、最後まで手放さないもの、つまり「理想」である。
そう、君ん中に、溢れ出す世界に、必死で灯るサインが。
「ジュビリー」(ERA)
それをみんなが持って、出会えたらなぁって、
単純に想いたいから。
僕は、手かかげて、想い達するまで。
死を意識した僕/君が、まさに「必死」に灯すサイン。そこには他者とのつながりを希求する切実さがある。ここで使われている「出会い」という言葉も、中村一義の歌では繰り返し用いられる。たとえば「みんなが待つ誰かや、みんなを待つ誰かも、出会えるといいな」(「生きている」)、「いろんなねぇ、色、音で、出会う僕も僕と分かる」(「謎」)、「そんなねぇ、こん先で、出会う感動も、またあるとして」(「1, 2, 3」)など、中村はさまざまな言葉で「出会い」の喜びを歌っている。
出会いは、常に自分とは「異なる物」との間に起こるものだ。必死のサインによって生まれた、自分と差異のあるものとの邂逅という奇跡を中村は歌っているのだと思う。ここで言われる「出会い」の感触を述べていたものとして、「永遠なるもの」の冒頭の歌詞は解釈することができる。
ああ部屋のドアに続く、長く果てない道
「永遠なるもの」(金字塔)
平行線の二本だが、手を振るぐらいは…
「出会い」という言葉からは、人生が交差していくような感覚もあるが、「君」と「僕」の人生は結局は「平行線の二本」であり、永遠に埋まることのない空隙がある。でも、互いに手を振って、存在を確かめ合うぐらいは、あってもいいじゃないか。孤独に理想を掲げ、街に背を向け、僕として歩んでいる「僕」が、「サイン」を灯して、感知してくれた他者に手を振った瞬間の可能性を追求し続けたいと私は考えている。
「永遠なるもの」に見る中村一義の理想
さて、中村一義が直接的に自分の「理想」を歌った歌として最初に挙げるべきは、やはり「永遠なるもの」になるだろう。この歌では、「愛がすべての人に分けられてますように」「感情が全ての人たちに降り注ぎますように」「すべてが人並みに上手く行きますように」と、分かりやすくストレートな言葉で中村の願いが歌われている。最後に歌われるのは「全ての人たちに足りないのは、ほんの少しの博愛なる気持ちなんじゃないかなぁ」「この幼稚な気持ちが永遠でありますように」という切実な言葉である。そして「僕の人生はバラ色に変わった!」という叫び声とともにアルバムは幕を閉じる。
これらの言葉には、中村が理想とする世界がそのまま描かれていると思う。ひとまず「永遠なるもの」に表現される中村の理想は、博愛にあふれた世界、みなが「人並みに」うまくいく社会、といったところになるだろう。
ただ、こうして「愛」や「感情」を解放の鍵としてとらえる見方には、危ういところがあるし、私としては批判したいところだ。理想とするべきは、愛や感情があろうがなかろうが、誰もが解放されて共に生きて行ける社会だと私は思う。この社会の現状を「人々が愛や感情に欠けているせい」としてしまうのは、「感情の感知能力がない人が悪さをするのだ」という能力主義・健常者中心主義的な帰結になりかねない。また、排外主義だって当人にとっては「愛」のためだったりするわけで、その意味でも「愛」を掲げる理想には限界があると思う。
加えて、「人並みに上手く行きますように」という言葉も、少し引っ掛かるところはある。それはこの言葉に、規範的な、幸せとされる「人」の生き方が想定されているような感触がするからだろう。もしくは、かわいそうな他者を「救済」するような方向性にも読めるという面もあると思う。(ただ、この歌詞は「みんなそこそこ上手く行ったらいいのに」という素朴で幼稚な願いを、絶妙に表現したものとして受け取ることも可能だとは思う。)
「永遠なるもの」に描かれる理想に、こうした限界を感じることは否定できない。ただ、中村が「愛」を歌う時には、私がある種の安心感を受け取っていることも確かだ。その安心感は、中村が恋愛・家族愛的な「愛」、また規範的なものとされる「愛」の形からは明確に距離を取っているアーティストであることから来ていると思う(*1)。私は勝手に、中村のいう「愛」や「感情」を、共存・共生することへの志向として読み替えて受け止めている。アーレントが言うように、われわれは「地上で誰と共生するか」を根本的な意味では選ぶことができない(これを「選べる」とする考えの行きつく先がジェノサイドだ)。中村にとっての理想とは、平行線を辿る他者たちとの邂逅に、徹底して「喜び」を見い出せるような自分でいること、にあるのかもしれない。
最後に
以上、私の勝手な歌詞の解釈を書いてきた。中村は、多くのミュージシャンとは異なり、デビューまでライブを一切行ったことがなく、たった一人で自宅での録音でデビュー作の『金字塔』を作り上げた。その自宅の録音ブースは「状況が裂いた部屋」(「犬と猫」)と名付けられている。中村の歌はポップな調子でありながら強烈な「ねじれ」を感じるものであるが、それはまさに「状況が裂いた」中村自身を映し出しているように思う。
一言でまとめると、理想を掲げる人に祝福の言葉を届けるために、中村一義の歌はある、と私は思う。最後にそういう歌詞を掲げて、この文章を終わりにしたい。
僕等は、願いを持った戦士なんだ。
「虹の戦士」(ERA)
もし、君の声が枯れ果てたら、
オレが歌で叫んでやる。
僕やあなたも自分の声で
「JUBILEE」(ERA)
やがて祝える日があるとして
ただ僕等は絶望の「望」を信じる。
「魂の本」(太陽)
なんか、わかんないかなぁ…って。
- 私の記憶の限りでは、中村一義の歌詞にはジェンダー中立的な言葉しか出てこない。直接的に恋愛を描く歌もない。この傾向はデビュー以来一貫している。ただ性規範への問いかけの歌詞があるわけでもなく、どちらかというと「無性」にして「博愛」という言葉がしっくりくる曲を作り続けてきた人だと思う。そもそも中村一義のパフォーマンス自体、極端な裏声を多用し、いわゆる「男性的」な声では歌わない。服装や髪型なども中性的なもの、またはっきり女性的とされるものを好む印象がある。特に近年は、長髪でワンピース風のゆったりした服を多用している。こうしたところからは、いわゆる規範的な男性性から距離を取ったパフォーマンスをする意志をはっきり感じる。