その「笑い」はどこから来た?〜KASHIKOI ULYSSES「feelings, NONAME」
私が吉田寮の食堂のライブで出会って以来、ぶっ刺さって聴き続けているバンドが「KASHIKOI ULYSSES」(賢いユリシーズ)である。特に「feelings, NO NAME」のノイズとサックスが入り混じる演奏で衝撃を受けて、その後に歌詞を詳しく見てより好きになった。この曲が伝えたいことは、サビのリフレインに集約されている。
誰も笑わないで欲しい
意味なく笑わないで欲しい
何も面白くはないよ
誰も笑わないで欲しい
では、「笑わないで欲しい」とはどういうことだろう。また、ここで言われる「笑い」とはどういう笑いを指すのだろう。この曲が何を歌い、何に抗っているのかということは、先を聴き進めていくと分かる。
何かの回路が君に
埋め込まれているとしたら
何がスイッチになって
君は笑いますか?
テレビやネットを見ていると、「ここは笑うところ」というスイッチがあって、みんなそれに反応して笑っているように見えることがないだろうか。あれは嘲笑していい、冷笑していい、つまり「笑っていい」対象だというスイッチが押されて、人々は埋め込まれた回路に反応するようにそれに笑っている。笑う人々は、何が面白いのかもよく分かっていない。今の社会はそういう下卑た「笑い」で溢れている。
笑いたければ笑っていてもいいけど
まじその先に何が待つのか
みんなが一つになる方法なら
もう少しマシな方法があるかも
そういう「笑い」によって、「みんな同じ感覚だよね」「これにノッておけばハブられないで済むよ」みたいな、ある種の安心感と一体感が与えられる面があるのも確かだ。でも、その笑いの先に、一体何が待っているのだろう。それは誰かを排除する冷たい笑いでしかない。内向きの、閉鎖的で、ホモソーシャルな場を作り出すための笑い。その先には差別が待っているのではないか。
みんなが一つになる「安心感」みたいなものが欲しいのは分かる。でも、もっとマシな方法があるんじゃないか。第一、そうやって埋め込まれた回路に反応するだけが、「あなた」ではないはずだ。本当の、そのままの、あなたの感情を探してみようじゃないか。
全然浮かばねー
この感情の名前
喜びでも悲しみでも
怒りでも嬉しみでもまだ誰も知らないね
僕だけのfeelingだって
今だけは名前から自由になって踊れ
あなただけの感情が、そう簡単に外からは名付けられない感情が、確かにある。その感情を大切にして、自由に踊ることはできないのだろうか?
しかし、どんどん人々の生活の余裕がなくなっているこの時代、「自由になって踊る」こと、同じものを笑えと強要してくる社会に抵抗することは、どんどん難しくなっている。
生活には苦しみがあって
それぞれ別れた先のhomeで
どうしても逃れられない孤独と
向かい合う時間 internet? borderless?
自由に踊るためには、自分だけの感情を大切にすることが必要で、それは自分の孤独と向き合うことでもあったりする。孤独と向き合うことが辛い場合も辛くない場合もあるだろうけど、いずれにせよそれが逃れられないものであることは確かだ。
その次に来るラップ(?)部分は、解釈が難しいけれど、そういう生活者の鬱屈とした苦悩を表しているものとして受け取った。
一切 期待 したい 将来
見えない 癒えない 存在 問うnight
できない 抗体 flexibleな応対
そう無い 本題 消えていくonline
0から9まで飛んでいたよ
10から今まで沈んでたよ
時間が過ぎれば色は変わるけど
明るい場所へは戻っていけないよ
そういう鬱屈とした日常を送っていても、やらなければならないことがある。それは(自分を含めた)不当に抑圧される人のために抵抗することだ。
それでも声をあげる
届くかもしれないからいつかは
だから、だから
だから、だからせめて、声を上げる私を笑わないでくれ。「笑わないで欲しい」という言葉は、抵抗する自分を見て笑わないで欲しい、という願いの吐露として受け取ることもできる。「届くかもしれないからいつかは」という叫びからは、賢いユリシーズの別曲「Ai wa kodashini」の「延期されずに私信を届けたい」という歌詞を想起する。
さて、そうはいっても、自分だけの感情ってなんなんだろう、という疑問に行き着くかもしれない。そんなもの本当にあるのだろうか。そして、どうやったら「そういう笑い」ではない方法で、他人と通じ合うことができるのだろう。その答えになる鍵は、この歌の途中に挿入される以下の部分にあると思う。
そのままでいいから
感じたままでいいから
忘れてもいいから君のままがいい
君のままがいい
君のままでいい
あなたは「そのまま」でいい。そのままでいいという肯定こそ、あなたに対する愛なのだ。他の人に合わせて笑うための回路を埋め込まなくていい。名付けられない感情のままに踊っていい。名前から自由になって、私は私のままで、あなたはあなたのままで、そういう通じ合い方を試してみようじゃないか―。
賢いユリシーズというバンド
賢いユリシーズの他の曲も素晴らしい。たとえば、「愛とは何なのか」。タイトル通り、愛とは何なのか考えを巡らせていく曲なのだが、その一節に「悔しさだけが敵なんだ」という詞がある。「悔しい」という気持ちは、自分は劣っているという認識からくるもので、そのままの自分の肯定ではない。だから、「愛とは何なのか」を考えていくと、「悔しさ」は敵になる。ここにも、「そのままでいい」「君のままでいい」という叫びが表現されていると思う。
「SAdMISHISA」は「さみしい」という感情を擬人化した歌で、「きみの孤独の中で 僕は生きてる 夢の中で語りかけている」と歌い出す。「孤独を勝ち取るための歌」では、「探す人は探されない」と歌う。「延期された私信」では、誰かが届けたくて届かなかった夢を、風の中から拾い上げる。
一言で言えば、活動家の孤独に寄り添ってくれる歌、それが賢いユリシーズだと思う。本当に秀逸な詞が多く、ライブパフォーマンスもピカイチ。特に京都でよくライブをやっているので、ぜひ観に行ってほしい。