パレスチナから読む『鋼の錬金術師』
『ユリイカ』の「『鋼の錬金術師』完結記念特集」(2010年12月号)に、パレスチナ/イスラエル研究者として知られる早尾貴紀の「『鋼の錬金術師』から読み解く国家と民族」という文章が掲載されている。早尾は、パレスチナ/イスラエルの観点から『ハガレン』の批評を試みており、ここではこの早尾の文章に導かれながら、『ハガレン』をパレスチナから読み解いてみたい。
なお、『ハガレン』という漫画は、ジャンルとしては少年漫画に分類されるものの、性的搾取・恋愛・マッチョイズムといった要素が比較的薄めで、トキシックな描写が少なく、他人に推薦しやすい作品である。感覚的には、フェミニズム的に批評する可能性はかなり開けている作品だが、『ハガレン』自体がフェミニズム作品とは言えない、ぐらいの作品だ。戦闘シーンが苦手な方には難しいかもしれないが、筆者としては多くの人にぜひ読んでほしい漫画の一つである。
以下、ネタバレを含むので、未読の方はご注意。
アメストリス国とイシュヴァール人
主人公のエドは、アメストリス国で暮らしている国家錬金術師だ。この漫画の世界でいう「錬金術」とは、ある物体を、同じ原子組成からなる他の物体に一瞬で作り替える技術のことで、たとえば「土から一瞬で粘土の造形物を作る」といったことが可能である。この時、質量は保存され、元の質量より大きなものは作れない(等価交換)。錬金術は、自然に由来する力で、コツを掴めば誰しもが扱うことができるとされる。漫画の中でも、錬金術は肉体的な修行よりも、学問的な真理探究の営みとして描かれることが多い。
「国家錬金術師」という肩書から分かるように、アメストリス国では錬金術師を国家が管理しており、エドもその一人である。国家錬金術師は、莫大な権限と資金を与えられるが、国家には絶対服従とされ、「国家の狗」と呼ばれることもある。エドは自分の目的を達成するため、国家錬金術師という立場を利用し、またそれと格闘しながら世界を飛び回る。
さて、そんな主人公の暮らすアメストリス国は、かつて異民族・異宗教のイシュヴァール人を大虐殺したことがある(イシュヴァール殲滅戦)。15巻前後に描かれる、その描写は圧巻である。その素晴らしさは、単に戦場の凄惨な描写がリアルであるという次元には留まらず、なぜ「戦争」が起きるのか、そこで軍人や市政の人々がどう動くのか、というシステムを描ききったところに本質がある。
「アメストリス国とイシュヴァール」というネーミングには、内容から考えれば、「アメリカとイスラーム」が重ね合わされているとするのが自然であろう。そして今読むと、この殲滅戦に、いまイスラエルとパレスチナで起こっていることを重ね合わせざるを得ない。実際のところ、荒川弘がイスラエルの歴史に取材して『ハガレン』を書いたのかは不明だが、少なくとも、この作品が「戦争」と呼ばれるものの本質をよく描いているがゆえに、こうして現実と重なってくることは確かである。
物語を通して明らかにされることは、アメストリス国は、ある一人の「小人」が、一つの目的のために作った国ということである。アメストリス国は、その目的を果たすために、効果的な場所で虐殺を起こし、巨大化してきた。イシュヴァール殲滅戦は、宗教対立のためとか、イシュヴァール人が内乱をたくらんでいるからとか、さまざまな理由付けがなされていたが、結局はアメストリス国の側から仕掛けられたものに過ぎない。そして、アメストリスの「錬金術」自体も、その国家の目的のもとに作られた「国土錬成陣」を基礎としてその力を発揮していた(ただ「錬金術」は自然に存在する力で、それをアメストリス国ではゆがんだ方向で利用していたということである)。
早尾の行論
以上を踏まえて、早尾の行論を追ってみよう。早尾は、「この国を利用して何かをしようとしたのではなく、何かをするために一からこの国を作った」というアメストリス国の設定が、パレスチナ/イスラエルの文脈から読むと、「妙なリアリティを感じ」ると指摘する。それは、イスラエルが「ユダヤ人国家」を作ろうという一つの目的のもとでパレスチナに入植し、軍事侵略を行い、その過程で民族浄化(虐殺)を起こした国に他ならないからである。
こうした枠組みだけではなく、イシュヴァールとパレスチナで起きる実際の事件にも類似点がある。たとえば、イシュヴァール人が亡命を希望し殺到した隣国との国境は、高いフェンスと鉄条網で閉ざされ、隣国はその希望を黙殺する。早尾が指摘する通り、これはエジプトとガザ地区の境界があるラファ検問所で起きたことに他ならない。早尾が指摘していないところでは、イスラエルがさまざまな最新の研究を駆使してパレスチナ人の「効果的な虐殺」を実行していることと、アメストリス国が錬金術師の技術を駆使して虐殺を行ったことも重ねられるだろう。たとえば、錬金術師の一人のマスタングは、空気中の水素を錬金術によって操作し、絨毯爆撃を行う技術を身につけ、実行した。錬金術師が戦争に加担していく様子は、イスラエルにおける科学や学問の戦争協力を思わせる描写である。
そして早尾は、「一つの目的をもった国家」というモデルがイスラエルに特有の話ではなく、むしろそれこそが「国家」の本質なのではないかと指摘する。たとえば日本の場合、戊辰戦争・東北戦争、アイヌ侵攻、琉球処分などを通して、日本列島は至る所に「血の紋」が刻まれている。その後も、日清戦争、台湾領有戦争、日露戦争、日中戦争と、植民地・占領地をどんどん広げていった。「現在の領土を守ろう」という目的が掲げられるとき、いつのまにか「現在の領土」が前提とされていて、その目的のもとで暴力が正当化されていく。
最後に、早尾は、『ハガレン』の結末が示す方向性に欺瞞が隠れていることも指摘する。作中では明示されないものの、複数の要素から推測するに、アメストリス国の未来は、グラマンとマスタングらによって、イシュヴァールの復興を進めながら、徐々に民主制に移行していく形が想定されていると解釈できる。しかし、そもそもの建国の目的が狂っていたアメストリア国が、イシュヴァールを包括するという結末は、真の解決に至っていると言えるのか。早尾は「国土錬成陣が無化された以上、その国土が、すなわち国家そのものが、「解体」に向かうということがあってもいい」と提示する。
この批評は、本作に対する、というより作者の荒川弘に対する分析として、非常にクリティカルな点を衝いていると思う。つまり、物語の舞台設定を精緻に作り上げ、その中でキャラクターを誠実に動かした結果、「国土錬成陣を無化する」こと以外にアメストリス国の暴虐を解体する方法は有り得ないと荒川も分かっていた。しかし、ではその後の国家体制をどう考えるかという点では、荒川は「なんとなく民主制になってアメストリス国がイシュヴァールを保護する」ぐらいの方向性しか示せていない。この認識の差は、国家という存在をわれわれがあまりに自明視していることの裏返しであるととらえられると思う。
エドとわたし
本作の中で、エドは、国家錬金術師としての立場だけではなく、自らが使う錬金術という技術自体が、国家権力と過去の大虐殺に支えられていることに徐々に気が付き、その矛盾に葛藤する。それはつまり、アメストリア国にいるエドから、イスラエルの中にいる私、日本の中にいる私が二重写しになって見えてくるということだ。私たちの豊かさと特権が、過去の加害の歴史の上に成り立っているということは、どうしようもなく否定できない事実である。その特権を無自覚に振るうことは、過去の虐殺に加担することに他ならない。エドは、そしてエド以外の多くの人々が、そのことに気が付いた上で、ではその特権を使って自分は何をするかということを考え、行動に移すことで、国家錬成陣は解体されてゆく。
早尾は、以下のように述べている。
第15巻を読んでいると、パレスチナの民族浄化が、1947~49年に起きた過去なのではなく、2000年代の現在なのではないか、あるいはこれから先に真の民族浄化が来るのではないか、という気にさせられる。
この予感は最悪の形で当たってしまった。虐殺が続いている現在において、エドやアルと同じように、私たちが自分の特権を使って何をすべきなのか、いま改めて問われていると思う。