閑閑空間
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しびれるような世界を求めて~岡田索雲『ある人』

2024年12月(元記事を改稿)

 岡田索雲『ある人』(webアクション)を、何度も読み返して繰り返し感銘を受けている。

 最初、この作品の前半を読んだ段階では、「突然誰かとぶつかって入れ替わった」という(漫画でよくある)設定を武器に、現代社会に蔓延っているトランスジェンダー差別の言説の理不尽さを浮き出させた漫画という印象を持った。誰も主人公の話を聞かず、出会うのは風呂とトイレについての言説ばかりで、真に自分の状況を理解して助けを差し伸べてくれる人はどこにもいない。そして「専門家」がしたり顔で分析し、また的外れなことを主人公に投げかける。まず本作は、現在の日本列島の社会に広がっている、トランスジェンダーをめぐる言説の状況を鮮やかに切り取って伝え、その不条理さを上手く描いている。

 しかし、本作を読み進めていくと、差別的な言説の理不尽さを皮肉によって浮き彫りにする作品、つまり「差別者を茶化す」ことだけを狙いとする作品ではないということに気が付く。この物語は、間違いなく、自分を探し求め、生存のために身を投げうって闘わざるを得なかった当事者のためのものだ。細かな台詞回しと全体のストーリーから、そのことがよく分かるようになっている。

「医者というより門番じゃないか」

 ひどい言説が投げかけられるなか、主人公は「本当の自分」を探す旅に出る。その道があまりに曲がりくねっていて歩き辛そうなのは、その先の苦難を感じさせる。その道中、主人公はタクシーを拾う。しかしタクシーは後戻りを始める。そして運転手は主人公に医者に行くように勧めてくるが、その医者は金剛力士像のような恐ろしい姿で仁王立ちしている。

 かつてのGID(性同一性障害)の枠組みにおいて、こうした「医者」の役割は、その人の自分史を聞き取るといった方法で「診察」し、「GIDである」「手術してよい」などと認定・判断するところに置かれている。しかし、そもそも主人公は、男女二元論的な社会のシステムと「合わない」から苦しんでいるわけで、その「合わなさ」を解消するために医者の診断が必要とされること自体が不条理である。そこに立っている医者は、ケアや治療をする存在ではなく、男女二元的な規範を維持するための「門番」(ゲートキーパー)として機能している。実際、GID認定医がなかなか診断を下さないために、当事者の状況がまったく進展しないという問題が既に指摘されている。

 そして「間違った身体にいるのでしょう」と言われた主人公は、「間違ってなどいない」と言い放ち、タクシーから飛び出す。この流れを見ると、このタクシーは、GID規範の中でのいわゆる「正規医療」のレールを示したものとして解釈できると思う。GID規範は、たとえば「男の身体なのに、間違って中に女の心が入っている」という枠組みで理解しようと試みる。確かに「間違った身体を持った」と感じる当事者はいるが、身体違和のない当事者も多い。そもそもどちらにしても、他人から「間違った身体にいる」などと勝手に判定される謂れはない。しかし、GID規範はそこをゴールにしてしまっている。そのレールには自分の居場所がないと感じた主人公は、タクシーを飛び出すのだ。

「時間がない 誰かわたしの声をきいてくれ」

 見開きで印象的な場面である。主人公が歩く場所の周りには、同志たちの墓がたくさん埋まっている。こんな社会でトランスジェンダーとして生きている主人公は、常に死と身近な場所にいる。「時間がない」という切実な叫びは、耐えきれなくて自死するという選択肢が現実味を帯びていること、死がすぐそばにあることを思わせる言葉だ。

 墓を通り過ぎて、主人公は自分を助けてくれる子供と出会う。子供は「おばさん/おねいさん」と主人公に呼びかけ、主人公のアイデンティティを尊重していることが分かる。子供に導かれて、主人公は道を知ることができ、先に進んでいく。

 子供は最初は仮面をつけているが、見送る時に素顔をさらしている。子供のことを案じる主人公に対して、子供は「ぼくは大丈夫、おとうさんもおかあさんもわかってくれてるから ぼくはおかしくないって言ってくれたんだ」と返事をする。力強い連帯が描かれるシーンで、ここに子供が登場することに希望を見い出したい。

「そうだ はじめから誰とも入れ替わってなどいなかったし そのように扱われるべきではないのだ」

 子供の助けを借りて、「本当の自分」の居場所に辿り着いた主人公は、このように宣言する。そして、自分が子供の頃の心象風景が描写され、「子供の頃からずっと、この世界を生き延びるための術を身につけなければならなかった」と語られる。そして主人公は、ある時誰かと「入れ替わった」わけではなかったということに気が付く。入れ替わった相手に「顔が無い」ことはその象徴だろう。

 言い換えると、この物語の導入になっている「ぶつかって他人と入れ替わった」という設定(=GID的な規範)自体が、実は社会の側から与えられた枠組みでしかなかったということに、主人公は気が付く。中身が入れ替わった人という扱い自体が、そもそも間違っているものなのだが、そういう規範が幅を利かせる中で、主人公自身もいつからか「自分は中身が入れ替わっている」という言説を内面化してしまっていた。それは社会にそういう物語しかなかったからだ。

「どうして説明し続けなければならないのでしょう 繰り返し 繰り返し 私が存在している理由を」

 マジョリティによって設計された社会の中で、マイノリティは生きていくために常に「説明」が求められるという、非対称で、差別的な状況がある。しかも、説明したとて、「論争のための材料」にされたり「馬鹿にされるための議題」にされるだけだったりする。ありのままの「自分を愛する」ために、「なぜここまで苦労しなければならないのか」と主人公は独白する。

 ここで『ある人』という本作のタイトルに帰ってくる。どんな属性であろうが、その人は「ある人」でしかなくて、そこらへんで生きているたくさんの人間のうちの一人である。しかし、ある特定の属性の人々だけが、常に説明を求められ、足蹴にされ、自分を愛することができなくなってしまう。

 では、こうした苦労を経て、「自分の物語を取り戻した」主人公は、どこに向かうのか。

 最後のシーン。主人公は「やっとわかりましたよ 本当に向かうべき場所が」と言い、爆撃機に乗って国会議事堂に向かう。こうした規範とシステムを作り出す根幹を破壊しに向かった、と解釈できるだろう。破壊・爆撃という直接行動で読むことに抵抗がある人は、比喩表現だと捉えればよい。つまり、家父長制、戸籍制度、GID規範、特例法、男女二元論、そしてそれらを支える国家というシステムを、解体するための運動を始めることの比喩である。その解体の先に待っている、解放された世界―「しびれるような世界」を目指して。

作り手の責任

 なお、本作以前に岡田索雲が発表した短編集『ようきなやつら』に「東京鎌鼬」という作品が収められている。「東京鎌鼬」は、性的合意が取れていない状態で性行為を営む夫婦を描いた作品で、最後はオスが切り取られた陰茎を放置されるというシーンで終わっている。そしてこの作品のあとがきには、ネットで発表した後、無邪気に差別的な解釈をされて愉しまれてしまって困惑したとコメントがある。

 いま当時のネットでの反応を調べてみると、陰茎を置いていかれるというこの作品のオチから、トランスジェンダー差別につながる感想がいくつか見つかった。おそらく作者のコメントはこれを指していると思う。とすると、本作『ある人』は、当時受け取った差別的な反応に対するアンサーや抵抗として書いたという意味合いもあるのかもしれない。これは、差別的な反応を生み出してしまう作品を公開した作者が、新しい作品という形で、その出来事に対する責任を取ったと言えよう。この推測が当たっているのかは分からないが、いずれにしても、作り手としての誠実な姿勢が見て取れる作品であることは間違いない。

読書案内

 最後に、この漫画は、吉野靫さんの『誰かの理想を生きられはしない―とり残された者のためのトランスジェンダー史―』の論旨とかなり響き合うものを持っている。『ある人』の主人公は、まさに「とり残されたトランスジェンダー」であると言えるだろう。私の解釈が正しいかは別にして、合わせて読むと想像が重なり合って響く作品である。ぜひ両方読んでほしい。