「ウィキペディアに参加しよう」と言いたい時と言えない時
ウィキペディアン(=ウィキペディア執筆者)の多くは、きっとウィキペディアへの参加者が増えてほしいと考えていることでしょう。私もその一人です。私は主に日本語版ウィキペディアに参加しているので、この課題に向き合うときには、自然と日本語版ウィキペディアのことを考えることになります。
自治空間としてのウィキペディア
私は、ウィキペディアは、基本としては自治的なあり方を志している場所だと考えています。ウィキペディアは、対等な対話の原則が基礎とされ、運営に当たっては利用者間の合意形成が重視されます。一定以上の編集をした利用者の権限はほぼ同じで、一部「管理者」という特別な権限を持った人がいますが、これは利用者間の投票で決められます。管理者になっても給料がもらえるわけではなく、自主奉仕でウィキペディアに貢献しています。利用者がみな対等な立場で、話し合いによって運営することが志向されているという意味で、ウィキペディアは「自治」の性質を持つ場所です。
さて、ウィキペディアの文脈に回収せずとも、一般に、自治というのは本当に難しいものです。これまで私が経験してきた「自治」を志すコミュニティでよく出くわした問題は、①負担が一部の参加者に偏ること、②差別やハラスメントが起こること(起き得ること)、の二点です。そして、日本語版ウィキペディアにおいても、この二点の問題は一定通用するところがあると考えています。
ウィキペディア運営上の負担の偏り
まず、①について考えてみましょう。ウィキペディアは知識やデータを開かれた形で世界に提供する場所です。ウィキペディアはインターネット回線が必要という欠点はあり(この世界ではネット回線を使えるということは大きな特権です)、内容についてもさまざまな留意が必要ですが、少なくとも、こういう理念があることと、実際ある程度その役割を果たしている(果たしてしまっている?)ことは否定できません。
つまり、ある意味で、そもそもウィキペディアの記事を書くこと自体が、「世界で誰かがやらなければならない負担」を自分が請け負って、世界を少しはマシなものにするために貢献している(=負担を引き受けている)、と言えるでしょう。この考えは、ウィキペディアを過大評価している面はあるし、また書く記事の内容によるところもあるので、他のウィキペディアンの同意を得られるかは疑問ですが、少なくとも私はそういう気持ちで記事を書いています。
また、ウィキペディアの中で言えば、荒らしへの対応・利用者ブロック・システム管理といった管理者がこなす維持・保守作業は、広く利用者で負担を分け合っていくべきものです。しかし、日本語版ウィキペディアは管理者が比較的少ないことが知られており、こうしたシャドウワークを分け合い切れていないと考えるべきです(現在、日本語版ウィキペディアの管理者は、わずか40名ほどです)。私自身も、少しずつ作業領域を増やそうと思いながらも、管理業務には手を出せていません。ここには、ウィキペディア・コミュニティ内部における負担の偏りが見られます。
もう一つ、多大な負担として挙げられるのが、いわゆる「コミュニティを疲弊させる参加者」への対応です。対話を原則とするウィキペディアにおいては、たとえば、明らかに中立的な観点から外れた編集をし、差別的な発言を繰り返すような利用者であっても、それが表面的にはウィキペディアのルールに則っているように見える場合は、即座にブロックすることは難しいのが現状です。そうした場合に、対話を試みて、その人の問題点を指摘し、それでも納得されない場合に、またやり取りを繰り返して、という負担を背負う人が必要になります。こうした役回りは、時間的な労力だけではなく、精神的な意味での負担も非常に大きくなります。
以上は代表例ですが、他にもウィキペディアの執筆・運営に際してはさまざまな負担があります。私はこうした「負担の偏り」を思うとき、「みんなウィキペディアに参加しよう」と言いたくなります。参加者の絶対数が増えれば、分散できる負担があるし、管理者の増加にもつながるでしょう。特に、ある分野に精通している人、手元に良質な参考文献をたくさん持っている人には、ぜひ参加してほしいと強く思っています(研究者や学者はこの例に当てはまるでしょう)。
ウィキペディアと差別・ハラスメント
しかし、本当は気軽に「ウィキペディアに参加しようよ」と言いたい私でも、そう簡単には言えないな、と思うこともあります。それが、②「差別やハラスメントが起こること(起き得ること)」について考える時です。
日本語版ウィキペディアの場合、日本語を使う利用者の数が多いので、自然、利用者は日本で生まれ育った人が大半を占めるようになります。また、「ウィキペディアにおけるジェンダーバイアス」でも指摘されているように、さまざまな要因から、ウィキペディアンは男性ジェンダーに偏りがちです。すると、日本語版ウィキペディアの場合、属性が「日本人・男性」に偏りがちになっていくという現象が起きます。ほか、宗教・性的指向などの属性にも偏りがあると予想されます。これは、現実の日本列島社会の権力構造をある程度反映すると言えるでしょう。
こうした「属性の偏り」を意識しないと、ウィキペディアの記事の立項対象の偏りや記事内容の偏りに繋がっていきます。また、対話や議論の場で、マイノリティに対する差別的な言説が展開されやすくなってしまうことも否定できません。実際私は、差別的な記述がある記事も、差別的な言説を唱えている利用者も、どちらも見たことがあります。現実世界でもさまざまな差別にさらされるマイノリティが、貢献できると思ったウィキペディアでも差別的な言説に出くわしたら、非常に大きな傷を受けることになります。
この現状を考えると、気軽に誰にでも「あなたもウィキペディアに参加しよう」とは言えないし、ましてや「内容に文句あるなら、あなたがウィキペディアに参加しなよ」という言い方はもっとできない、と私は感じています。それは場合によっては、差別的な記述によって被害を受ける被差別属性の人やマイノリティ当事者に、その記事の改善を迫る負担を押し付ける発言になりかねないからです。
属性の偏りが差別を生むわけではない
いま乱暴な書き方をしてしまいましたが、「属性の偏りが必ず差別やハラスメントを生む」というわけではありません。というか、「属性の偏りは差別を生む」という定式を否定できない場合、マイノリティは一生差別に苦しむということになってしまうので、否定されなければ困ります。
たとえば、日本語版ウィキペディアにおいて、「女性ジェンダーと男性ジェンダーの利用者の絶対数の偏りを無くす」ことなら理論的な意味で可能でしょうが、「トランスジェンダーとシスジェンダーの偏り」や「非日本人と日本人」の場合を考慮すると、真の目的が「利用者の属性の絶対数の偏りを無くす」ことではなく、あくまで「差別やハラスメントをなくすこと」に置かれなければならないと分かります。
むろん、属性の偏りが少なくなること≒多様な立場の参加者が確保されることによって、記述内容の偏りが是正する方向に向かいやすくなるとは思われ、その目標も重要です。ただ、より重要なのは、属性の偏りによって権力勾配が生じること、そこから差別やハラスメントが起きやすい土壌ができることを、ウィキペディアンが自覚する必要があるということです。そして、その状況を改善するため、ともに場づくりを考え、行動に移していくことが求められます。
負担の偏りとハラスメント
また、これはより難しい問題ですが、先述した「負担の偏り」が権力構造と直結する場合があります。たとえば、「抑圧される側の人に、差別・ハラスメントに対応する負担が偏ってしまう」というパターンもあります。また、「負担を負う人に権力が集まりがちで、その人が他人へハラスメントを起こしてしまう」というパターンもあります。過去の日本語版ウィキペディアで類似の事例があるのはどうかは知りませんが、自治を志す空間では起こりがちなことです。
できることは何か
では、「日本語版ウィキペディアを差別やハラスメントが起きにくいような空間にすること」に目標を据えるとして、結局何ができるのでしょうか。全体のルールやシステム作りという方向性では、原則的にはこんな答えが浮かびます。
- 差別やハラスメントが起きた時に、周りの人が素早く動きやすいようなシステムを整えること。
- その対応の負担が偏らないようにすること。
- その負担が比較的少量で済むような仕組みを作ること。
これとは別に、利用者が個人の行動規範として持てることがあるとしたら、こうした日本語版ウィキペディアの属性の偏りを認識し、メタ的に場をとらえながら、執筆・発言していくことが重要でしょう。また、自分の行動について何か指摘を受けたときに、一旦立ち止まって、真摯に向き合う姿勢も必要になると思います。
こうした理念は、完全に達成される日が来るものとしてとらえるのではなく、動的にそこを目指し続けるものとしてとらえることが重要です。たとえば、「この会社にはハラスメントが一つもありません!」と自分で宣言してしまう会社は、大抵危ういところでしょう。まともな会社なら「嫌なことがあったら相談してください」と言うはずです。あらゆる社会の空間には、様々な要因から権力勾配が発生し、そこから差別やハラスメントが生まれています。ウィキペディア・コミュニティの参加者はこのことを常に意識し、はたらきかけを続けることが重要だと思います。
今書いたことは、部分的には日本語版ウィキペディアの方針に書いてあったり、ウィキメディア財団のユニバーサル行動規範に書いてあったりします。ただ、明確で独立した方針としては、日本語版ウィキペディアにはまだ上がっていないと思います。いま、何か方法を考えているところです。いいアイデアがあったら教えてください。
また、これまでに、日本語版ウィキペディアの中で負担を引き受けながら闘ってきた人がいます。そういう人には、本当に頭が下がる思いです。私もその志をともにしたいと考えています。
話を戻すと、私は、特に①の観点から、特権のある人(特に学者や研究者)に向けて発する言葉として、「一緒にウィキペディアにやろう」と言うことがあります。でも②を思うと、留保というか、ちょっとためらう気持ちがあります。この記事は、こうした状況に応答する最低限の責務を果たすために、自分の考えを言葉にしたものです。