閑閑空間
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Holly Lewis "The Politics of Everybody: Feminism, Queer Theory, and Marxism at the Intersection" ~クィア・マルクス主義への招待

2025年5月(元記事を微修正して転載)

 最近、友人の山村一夏さんに勧めてもらったのをきっかけに、クィア・マルクス主義についての書籍を読んでいます。(以下、本書の和訳と本記事の修正において、山村さんの力をめちゃめちゃ大きく借りていることを最初に断っておきます。まことにありがとうございます。)

 Holly Lewis (2022), "The Politics of Everybody: Feminism, Queer Theory, and Marxism at the Intersection", Bloomsbury Academic

 タイトルを直訳すると『みんな(everybody)の政治―フェミニズム・クィア理論・マルクス主義の交差点で』といったところ。もとは2016年に出された本で、2022年に第二版が出て(この時に新序が加わる)、2024年11月に新版が出たらしい。出版社のページに掲載されている情報を見る限り、2024年版では目次の見出し語にも変更があるようで(特に第三章)、内容も多少修正されているのかもしれない。ただ、2024年版は電子書籍で出ておらず、私は2022年版しか見ていないworld catの版・バージョン情報は以下。ただ、ここには2024年版はまだ反映されていない模様。https://search.worldcat.org/ja/formats-editions/939960909

 本書は、現在、マルクス主義がクィア・フェミニズムとは「別物」だと考えられがちなことに対して、過去のクィア・フェミニズム・マルクス主義の理論と実践(運動)の「交差点」を描き、その中におけるマルクス主義の位置を示したものである。「交差点」があるということは、過去のクィア理論やフェミニズム運動とマルクス主義は元々深い連結(また緊張関係)があるということなのだが、近年は取り上げられることが少ない。その忘れられた交差点を明らかにしたうえで、そこから今後目指すべき「クィア・マルクス主義」のあり方を提示するのが本書の目的である。

 私が本書を読んだ時に最初に抱いた印象は、「クィア・フェミニズム的な観点を欠いた労働運動・社会運動」と、「自分に居心地の良いコミュニティを作ることを運動だと錯覚するクィアの人々」との、両方に対する筆者の疑念が表現されているということである。いま「クィア・マルクス主義」でネットを検索しても日本語の情報はあまりヒットしないが、昨今の日本語圏での「クィア界隈」の言説や、アカデミアにおけるフェミニズムの状況、マルクス主義研究者の主張、そして社会運動・労働運動のあり方などを見るに、(本書の主張に賛同できるかは別として、)本書には資源として活用できるものがあると感じる。また、本書で紹介されている論考には日本語圏に翻訳・紹介されていないものが数多くあり、そうした研究への手引書としても有力であると思う。

 そこで、ここで本書の内容を紹介してみたい。ただ、私はこの分野の専門家というわけではなく、基本的・致命的な誤読をしている可能性があるし、また紹介する箇所も私の興味・関心によって大きく偏りがあることを断っておく。また、本書に批判すべきポイントがあることも確かであり、その点を論じた書評を最後に合わせて紹介する。

本書の紹介

 まず、出版社のホームページに掲載されている本書の紹介文の私訳を掲げておく。

 本書は、現在の政治状況における「man」「woman」「other」といった用語の生産・維持や、それらのカテゴリーの矛盾、そしてクィアの身体の実践に向けたマルクス主義的アプローチの展望を検討する。これまでクィアとマルクス主義の分析を和解させようと試みた思想家は数少ない。これを試みてきた人々は、主要な論点になるのはクィアの欲望/性的表現であると提案してきた。ルイスによれば、こうした欲望の強調は、ネオリベラルなプロジェクトの症状であり、アイデンティティ・ポリティクスに持続的に執着することを生み出してしまう。ルイスは、身体の生産・分類・排除の闘技場(arena)の中でのジェンダー・ポリティクスにとって、マルクス主義的分析が実のところは最も有益であると論じることで、資本主義的政治経済の現実に結びついた、ジェンダーとセックス化(sexed)された身体の理論を展開する。ルイスは大胆にも、新たな唯物論的クィア理論を提唱し、インターセクショナルでトランスナショナルでありつつ実経験に根ざした解放の政治を定義する。

 新序で、ルイスはトランスの権利についての明示的でマルクス主義的な理解―連帯と唯物論的/科学的なクィアの分析に根ざした理解―を支持する主張を論じる。彼女は同様に、初版刊行以降に現れた新たなマルクス主義の社会的再生産理論(Marxist Social Reproduction Theory)や、家族の解体、国際主義的マルクス主義運動を構築することの複雑性についても論じる。この運動は、クィアやトランスの闘争と連帯し、女性の現実に注意を払い、解放のためのグローバルな運動に西洋的な定義(特に米国・英国的な定義)を押し付けることを控えるものである。

https://www.bloomsbury.com/us/politics-of-everybody-9781350464087/(2025.3.19閲覧、私訳)

 なお、筆者のルイスは、本書のターゲットは以下の四つのグループであると述べているHolly Lewis (2022), Kindle版, 41/398ページ。※この本のKindle版は、いわゆる「位置No」が表示されないが、その代わりに文字サイズなどを変えても「ページ数」が一定で表示されるようなので、以下、引用箇所はkindle版のページ数で表記する。

  1. マルクス主義の実践のスキーマの中で、ジェンダーがどこに当てはまるかの理解を試みているマルクス主義の理論家。
  2. マルクス主義の分析を研究に取り入れたいフェミニストの理論家。
  3. 第三波フェミニスト・クィア・トランスのポリティクスや起源に詳しくないマルクス主義の実践者。
  4. マルクス主義の政治経済論に詳しくないクィアやトランスのフェミニスト活動家。

本書の目次

 以下、上のリンクに掲載されている目次(2024年版)を私訳したものを掲げる。先述したように2022年以前の版では少し異なるのだが、せっかくなので最新版の方を載せておこう。

各章の概要

イントロダクション

 本書のタイトルである「everybody」という言葉の持つ意味について、リベラル・資本主義・社会主義・ファシズムなどの観点から説明したのち、マルクス主義にとっての「everybody」の射程を述べる。

 「マルクス主義の用語では、誰も(everybody)が誰か(somebody)であり、誰もがどこにでも属している。マルクス主義者は、資本家という名の一人の人間や個人の集団を根絶しようとはしない。マルクス主義は、社会的関係(social relationship)を根絶しようとする。すなわち、世界を創造し維持する力と、その創造性を収奪する力との間の関係——それが個人的な利益であれ、家族的な利益であれ、特定の社会階層の利益であれ、文化や国家の利益であれ——を根絶しようとする」Holly Lewis (2022), Kindle版, 33-34/398ページ。こうしたマルクス主義的な全体性のとらえ方から、everybodyの政治を説くのが本書の主張である。

第一章

 異なるターゲットの人々が議論に参加できるように専門用語や概念を説明する章。第一節では、「アイデンティティ・ポリティクス」「システム」のように、フェミニズムでもマルクス主義でもクィア理論でも使われる言葉を、それぞれの含意や文脈の相違を踏まえて説明する。第二節では、マルクス主義者の間で論争の少ない共通認識とされるところから、「資本主義」の定義やその歴史・原理について解説する。第三節では、サルトル、ルイ・アルチュセール、デリダ、ジャン=フランソワ・リオタール、フーコーなど、ポスト構造主義、そしてクィア理論につながる学者たちを取り上げ、その理論の背景にマルクス的なルーツ(継承・批判)があることを整理する。

 全体として、ただの用語解説にとどまらず、各立場の相違とその関係性が歴史的経緯を踏まえて説明されている。そのため、マルクス的な概念が、クィア・フェミニズムの運動・理論の中で、(肯定的であれ否定的であれ)どのような役割を果たしてきたかを掴むことができる。

第二章

 マルクス自身の著述と、過去のマルクス主義者の言説に立ち返り、マルクス主義の中でのジェンダーの位置づけを再考する章。第一節~第三節では、現代に至るまでのマルクス主義フェミニズムでのジェンダーの扱いを概観する。マルクス主義フェミニズムは西洋の第二波フェミニズムで発生したが、ジェンダーに関するマルクス主義的分析を豊かにするというプロジェクトは達成されないままで、特にクィアやトランスを取り入れるようになったのはつい最近のことであるHolly Lewis (2022), Kindle版, 134-135/398ページ。その例として、シェリー・ウルフ(Sherry Wolf)、リース・ヴォーゲル(Lise Vogel)、ヘザー・ブラウン(Heather Brown)、ケヴィン・フロイド(Kevin Floyd)、ピーター・ドラッカー(Peter Drucker)といった論者が取り上げられるHolly Lewis (2022), Kindle版, 137-138/398ページ

 第四節~第五節では、ヘザー・ブラウンの議論を用いHeather Brown (2013), "Marx on Gender and the Family: A Critical Study", Chicago IL: Haymarket Books ※日本語訳はないが、浅川雅己(2020)「マルクスにおけるジェンダーと家族」で取り上げられている。、マルクスが資本主義下の女性と労働に関して深い洞察を残しており、それが同時代の他の論者に比べてかなり進歩的なものであったことを示す。たとえば、マルクスはセックスワークをワークとみなしていたしHolly Lewis (2022), Kindle版, 143/398ページ、女性は自らの解放のための政治的主体であるべきで、生産階級の解放とは性・人種の差別のない全ての人間の解放であると述べていたHolly Lewis (2022), Kindle版, 148-149/398ページ

 ただ、マルクスは資本主義下の女性の地位について体系的な分析を残したわけではなく、こうしたマルクスのレガシーは十分には継承されなかったHolly Lewis (2022), Kindle版, 145/398ページ。加えて筆者は、マルクスによる女性やクィアの見方から、マルクスやエンゲルスは「伝統的な性差別」を行う人ではなかったが、「対立的な性差別」ではあった、ということを指摘するHolly Lewis (2022), Kindle版, 152-153/398ページ。「伝統的な性差別」と「対立的な性差別」とは、ジュリア・セラーノが示した枠組みで、前者は女性の不平等な扱いのこと、後者は女性の資質を女性の身体に、男性の行動を男性の身体に収容すること。cf. Julia Serano (2007) "Whipping Girl: A Transsexual Woman on Sexism and the Scapegoating of Femininity",  Emeryville CA: Seal Press この本には日本語訳がある。矢部文(訳)『ウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』。そして第六節では、特にリズ・ヴォーゲルの議論に立脚しLise Vogel (2014), "Marxism and the Oppression of Women: Towards a Unity Theory", Chicago IL: Hay-market Books ※第一版は1983年出版、マルクス主義フェミニストによるエンゲルス批判を紹介している。ここまでの一連の議論は、マルクス・エンゲルスが残した知的資源が持つクィア・フェミニズムの可能性を、その限界に留意しながら整理したものと言える。

 第七節は、①「女性」のカテゴリー、②セックスとユートピア的社会主義、③セックスと第二インターナショナル、④セックスとロシア革命、の四つのセクションに分かれている。ここではジェンダー・アイデンティティと労働の歴史、アウグスト・ベーベルとクララ・ツェトキンの主張の分析、レーニンの女性解放論などが議論され、最後に初期社会主義フェミニズムによる性差別へのアプローチがまとめられている。

 第八節では、再びリズ・ヴォーゲルの議論に立脚し、マルクスの社会的再生産論の枠組みにおいて女性の家事労働がどう説明されてきたかを整理する。第九節では、この議論を踏まえつつ、アンジェラ・デイヴィスの議論を導入しDavis, Angela Y (1983), "Women, Race & Class", New York NY: Random House、社会的再生産論を人種(黒人労働、移民労働など)にも拡張していくここではヴォーゲル、ディヴィスによるラディカル・フェミニズム批判も紹介されている。ヴォーゲルは、女性/男性という二つの「階級」の間の戦争を根本的な政治闘争とするラディカル・フェミニズムの見方を批判し、女性の社会的地位は、男性によって確立されたものではなく、経済階級によって分断された世界の物質的要求によって確立されたものという。デイヴィスは、ラディカル・フェミニズムの基本的な命題である「普遍的なシスターフッド」は、黒人コミュニティではあまり賛同を得られず、黒人女性の抑圧は常に黒人男性の抑圧と結びついていると述べる。Holly Lewis (2022), Kindle版, 191/398ページ。最後に、第十節で、第二派フェミニズムとマルクス主義の絡まり合いについて議論した上で、ネオリベラリズムにおける労働とジェンダー/セクシュアリティ、人種の関係性について改めて整理している。

 本章でルイスは、ある労働者の社会的価値を攻撃することが賃金引き下げの合理化に繋がる、すなわち「女性、人種・民族的マイノリティ、移民、ジェンダー不適合者などに低い価値を割り当てること」=「労働市場における引き下げ」であると指摘する。そしてこの理由だけでも、女性・クィア・トランスジェンダー・移民・黒人・障碍者との連帯は、労働者の側にいる全ての人の課題であると言えると指摘するHolly Lewis (2022), Kindle版, 145-146/398ページ。この指摘は至当なものと言えよう。

第三章

 以上を踏まえて、「everybodyの政治」として具体的にどのような手段が必要とされるのか、また過去どのような政治が行われてきたか議論する章。第一節では、資本主義でのジェンダー抑圧の複雑さに不案内であった「オールド・レフト」の運動から、ポストスターリン主義的な「戦車による解放」、西洋の脱構築の原則への傾斜、そして西洋の学界のマルクス主義からの離脱とアカデミアへの後退という歴史の流れを概観しHolly Lewis (2022), Kindle版, 225-226/398ページ、それがもたらす「左派(ネオ)リベラル政治」が、意識向上キャンペーンや意識の高い個人を権力の立場に置くことで「システムの解体」を行い、権力をよりよく消滅させると考えるようになると指摘する。このモデルでは、個人の行動が政治力の限界になってしまうHolly Lewis (2022), Kindle版, 229-230/398ページ

 第二節では、バーバラ・フィールズの議論を参照しBarbara Fields (1990), 'Slavery, Race and Ideology in the United States of America', New Reft Revie 181 (May-June), 95-118、人種は人種差別によって生み出され、人種差別は労働力を切り下げ、過剰人口を活用する資本主義の必要性によって作られると指摘する。第三節ではバトラーの『ジェンダー・トラブル』の「反復性に基づくジェンダー」という説明と、フィールズの「反復としてのイデオロギー」の議論を接続するバトラーについては、何度かブログで取り上げたことがある。→ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(1) - 達而録藤高和輝『バトラー入門』についての(熱を込めた)感想 - 達而録。これらを踏まえて、第四節でインターセクショナリティ概念への批判(下記「十の公理③」を参照)を行う。

 第五節以降は、米国の政治的文脈に即した分析に入っていく。過去の米国のクィア・ポリティクスの戦略の歴史の整理(第五節)、それに対するマルクス主義的な批判(第六節)を踏まえ、第七節で、ジャスビル・プアーの議論を参照しJasbir Puar (2007), "Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times", Durham NC: Duke University Press 本書については日本語の書評がある:和田賢治(2019)「国際関係論のクィア的転回」。プアーについては、清水晶子「「ちゃんと正しい方向にむかってる」──クィア・ポリティクスの現在」(三浦玲一・早坂静編『ジェンダーと「自由」:理論、リベラリズム、クィア』彩流社、2013)、羽生有希「クィア・ネガティヴィティの不可能な肯定:固有/適切でない主体の脱構築的批評」(『ジェンダー & セクシュアリティ』11、2016)、清水晶子「ようこそ、ゲイ ・ フレンドリーな街へ」(『クィア・スタディーズをひらく2』晃洋書房、2022)などでも触れられている。、ピンクウォッシングの展開を解説しつつ、ホモノーマティヴィティという概念への批判を行う(下記「書評」参照)。第八節では、同性婚運動と、軍隊における「Don't Ask, Don't Tell」の撤回を取り上げ、その政治的な意義を具体的に分析する。

 最後に、第九節~第十節で、より国際的な観点からクィア・マルクス主義の可能性を議論する。特に、ヴィヴェク・チバーの議論を参照しVivek Chibber (2013), "Postcolonial Theory and the Specter of Capital", London: Verso、ポストコロニアル理論に対する批判を踏まえつつ、そこにクィアなインターナショナリズムに向けた可能性を見出している。その可能性とは、資本主義的な生産様式がどの場所でも一定の結果を生み出すと受け入れられることと、そこに国境を越えた連帯の根拠があるということである。その根拠は、同質性や、抽象的な自己、非文化的(acultural)な自己、非歴史的(ahistorical)な自己、アセクシュアル(asexual)な自己を必要としないものである。

結論:十の公理

 結論のまとめとして、本書の最後に提示されている「十の公理」とその要約を示しておく。これを見れば著者の主張をざっくりと概観することができる(内容は私による大幅な節略・組み換えを被っており、もちろん大意は損ねないよう注意したが、まったく直訳ではないので注意されたい)。

  1. 「断片」(fragment)の政治は、包括的な「みんな」(everybody)の政治に置き換えられなければならない。/The politics of the fragment should be replaced by an inclusive politics of everybodyHolly Lewis (2022), Kindle版, 311-313/398ページ
     マルクス主義者が性差別への挑戦をしなかった結果、セックス化・人種化された集団が、政治経済とは関係のない問題を抱えた「断片」として現れるようになった。断片化されたフェミニストは、自分の状況は外部からの抑圧によるものと考え、この社会は「資本主義」(具体的な政治経済)と「家父長制」(封建的な精神の残滓)という二つの別々のシステムがあると仮定することになった。しかし、この仮定の行く先は、「資本主義のようなものは存在せず、ただ個人が自由に平等に取引しているだけ」という結論でしかない。このモデルの中で人々ができることは、言語が自分の中でどう作用しているか認識し、言説の構造や制約への異議を唱える存在として自分自身を構築することだけだなぜこれでは問題なのかについては、第一章の以下の一段を参照。「クィア思想家は、労働の解放がすべてのホモフォビアやトランスフォビアを自然発生的に解決するわけではないと指摘することには早かったが、言説のラディカルなリフレーミングが労働を解放するわけではないと指摘することには怠惰であった。言語的現象を混乱させることは、制度的不公正を救済するには十分ではない。なぜなら、それは物質的条件を実質的に混乱させることができないからだ。同じように、フェミニストはマルクスが工場外での社会的再生産労働を完全に考慮できなかったことを正しく指摘してきたが、マルクスから離れてヒエラルキーと異性愛的家父長制への関心に向かったフェミニストの動向は、単に資本主義を非難し、それに対処するための戦略を練ることに焦点を当てるだけだった。糾弾と忍耐は、システムを混乱させることにはならず、ましてや終わらせることもできない。」(Holly Lewis (2022), Kindle版, 49/398ページ)
     ここでいう「everybody」とは、一体感・寛容性への固執や閉鎖性・有限性への憎悪ではなく、「世界は全体である」と論理的に推量できることの肯定を表す。everybodyの政治を受け入れた先には、「この社会は浄化・分離・秩序化される必要がある」という立場か、「人間は無限の複雑さの中で平等である」という立場か、どちらかしかあり得ない。残る問題は「あなたはどちら側?」ということだ。

    「あなたはどちら側?」という問いかけの意味については、第四章の以下の一段も分かりやすい。「連帯とは、多元主義(プルーラリズム)的で多文化的な統一・調和のことではない。……連帯とは、「敵対」と「どちらかの側につくこと」を意味し、同志を支援することへの貢献を意味する。連帯は分断を終わらせるものではなく、分断を認識することである。……リベラルな多元主義の暴力は、まさに連帯の形成を否定しているところにあり、その代わりに人類の統一について平凡なカテキズムを呟くことを要求する。」(Holly Lewis (2022), Kindle版, 299‐300/398ページ)
  2. 政治経済学の分析は、具体的で、弁証法的で、ジェンダー/セックスを含むものでなければならない。/Analyses of political economy should be concrete, dialectical, and gender/sex inclusiveHolly Lewis (2022), Kindle版, 313-314/398ページ
     経済学を理解したいなら、女性の立場を分析する必要がある。なぜなら、具体的で弁証法的な経済分析のためには、社会現象と政治分析を切り離すことはできないからである。世界の工場労働の大部分が人種化・ジェンダー化されているのには理由があり、人種的・ジェンダー的な社会的区分の発展と維持(≒被抑圧集団の構築)が、生産過程の結果にどのような影響を与えるかを分析すべきである。
     ジェンダー/セクシュアリティ研究は経済分析に不可欠だが、逆もまた真なりで、経済分析はジェンダー/セクシュアリティの理解に不可欠である。経済学は、社会的・哲学的文脈から切り離されてはならず、経済学が一般の人々には理解できないように提示されてはならないし、シス・ヘテロ男性の所有物として扱われてもならない。

  3. 抑圧のインターセクショナル・モデルは、統一的で関連性を持つモデルに置き換えられるべきである。/The intersectional model of oppression should be replaced with a unitary, relational modelHolly Lewis (2022), Kindle版, 314‐316/398ページ
     インターセクショナル・フェミニズムは、「普遍的な女らしさ」を唱えるフェミニズムに対して批判的な修正を行ってきた。確かに、抑圧をインターセクショナルにとらえることで、共同体の問題を明確に議論でき、「女性」の経験の本質化を防ぎ得る。しかし、「インターセクショナル」という比喩は混乱を招く面がある。このモデルでは、各抑圧(人種・ジェンダー・階級・セクシュアリティ・外見・能力など)が、不明瞭な起源を持つベクトルとして、個人の主体に交差すると仮定される。ここでは、人種・ジェンダーなどへの抑圧は、人種差別・性差別と呼ばれるプロセスの結果として理解されず、むしろ人種・ジェンダーを再定義するものとなり、各抑圧はあたかも悪意と悪い観念から生まれたかのように扱われる。しかし、元来、人種差別や性差別は、いきなり身体を襲うものではなく、物質的なマトリックスの中で展開される社会的プロセスである。
     また、インターセクショナル・モデルでは、階級は静的なアイデンティティとして理解されるが、マルクス主義での「階級」は生産様式の中の地位であり、抑圧に加算されるベクトルではない。「抑圧」は、「感じられる」から抑圧である。仮に、全女性が本当に自分に与えられた役割を愛していたとしたら、それは「抑圧」と呼べなくなるだろう。一方で、「階級」は、搾取の社会的関係を神秘化するもので、「搾取」とは、労働力が商品に付加する価値と、労働力を購入する者に手渡される剰余価値との間に数学的な矛盾が生じることである。仮に全労働者が幸せであったとしても、「搾取」の数学的な核心は変わらない。階級がある限り、搾取は残り、好景気と不況が続き、危機と過剰生産を原因とする過剰人口と環境破壊もシステム的に必要とされ続けるだろう。
     つまり、階級はプライマリーなものである。これは「階級が他の抑圧よりも重大である」という意味ではない。階級が限界であり、基礎であり、利益が抽出されるポイントであるから、(道徳的な意味ではなく、)戦略的な意味で、ここが異議を唱えることのできるポイントになるということである。

    「階級」の位置づけについては、同じく第四章の以下の一段も分かりやすい。「「労働者階級」はアイデンティティではない。それはシステムの中での立場であり、人々の精神・身体・生活を形づくるものである。最も重要なことは、それが梃子の作用(leverage, 槓杆)を持つ地位であるということである。それは資本主義の下での価値生産の源泉であり、その弱点である。」(Holly Lewis (2022), Kindle版, 305/398ページ)
  4. クィア/トランスであることは、反動的でも革命的でもない。/Being queer/trans is neither reactionary nor revolutionaryHolly Lewis (2022), Kindle版, 316‐318/398ページ
     資本主義は規範性から繁栄するという主張(≒非規範的であれば反資本主義であるという主張)は、資本主義が多様性・多元主義からも繁栄するという事実を無視している。ヘテロノーマティヴな家族が(労働市場を創造するものとして)資本のために生産的である一方で、クィアな個人主義者も(過剰人口として)資本のために生産的である。クィア文化も、文化をクィアにすることも、反資本主義ではない。セクシュアリティの多様性、創造的な自己表現、共同体の絆によって世界を変えられるという考えはロマンチックだ。しかし、できない。
     また、トランスやインターセックスの人々を、ラディカルな可能性の旗印として使うべきではない。その理由は、①トランスとインターセックス・ピープルは、多くの場合ジェンダー化されている、②トランスの身体は、意図的に自分の身体を政治的な対象として位置づけなくても、ひどく抑圧されている、からである。

  5. バイナリーは問題(the problem)ではなく、ノンバイナリー思考は解決策(the solution)ではない/The binary is not the problem and non-binary thinking is not the solutionHolly Lewis (2022), Kindle版, 318/398ページ
     ポスト構造主義以降、私たちvs彼ら、黒人vs白人、ストレートvsゲイ、男vs女、金持ちvs貧乏人、といったバイナリーを死滅させることが西洋のテーマになってきた。確かに、偽りのバイナリーが誤りであり、私たちと彼らの間にはすべてがあり、複数のセクシュアリティ・民族・宗教などが存在することは事実である。しかし、「バイナリーとの闘い」は、新たなバイナリーを生む。二元性vs複数性、ヘテローノーマティヴvsクィア、トランスvsシス、など。また、バイナリーへの闘いを掲げるとき、重要な政治的バイナリーは忌避される。人種差別vs反レイシズム、ピケットラインvsピケットラインの越境(スト破り)、クィア/トランスの人々の殺人vs殺されないこと、移民の歓迎vs排除、など第四章の以下の一段も参照。「二項対立に異議を唱えることに基づくクィア・ポリティクスは、……資本主義的な社会関係によって組織される日常の物質的生活の力によってもたらされたジェンダー・イデオロギーを根絶する十分条件ではない。同様に、人種差別的イデオロギーの不条理を実証することは、人種差別を根絶する十分条件ではない。……それらの不条理に異議を唱える組織化された運動ができるまで、何も変わらないだろう。」(Holly Lewis (2022), Kindle版, 318/398ページ)
     これらの対立は、弁証法的に理解される必要がある。人種差別と反人種差別は単なる抽象的・概念的な対象ではなく、物質世界における関係性のプロセスである。たとえば、クィアな人々に対する暴力から、暴力がない状態へと移行することとは、クィアやトランスの人々に危害を加えるであろう人々を、そうでない人々へと変容させることを伴うプロセスである。

  6. マルクス主義者は、トランス排除的ラディカルフェミニズムに立ち向かわなければならない/Marxists must stand against trans-exclusionary radical feminismHolly Lewis (2022), Kindle版, 318-319/398ページ
     トランス排除的ラディカルフェミニズムの、トランス女性を強姦魔とみなす偏執的なビジョンは、マルクス主義の中にはない。また、セックスワーカーを労働者(経済システムの中で活動している主体)として扱わず、セックスを売り物にする敵とみなすビジョンも、マルクス主義の中にはない。マルクス主義とは、経済的文脈の中での連帯と行動に基づく政治であり、ジェンダーパニックではない。一人への加害は、すべての人への加害である。

  7. クィア・共同体主義(コミュニタリアニズム)は、クィアな政治的要求に置き換えられるべきである/Queer communitarianism should be replaced with queer political demandsHolly Lewis (2022), Kindle版, 319-320/398ページ
     クィアにとっての「セーフ・スペース」の必要性は、永遠に政治的に良いことではなく、社会が悲しい状態にあることの証拠でしかない「セーフ・スペースが無知な大衆を排除する保護された環境であるのなら、クィア運動(およびアイデンティティに基づく他の運動)にとって、大学以上に退却するための良い場所はなかった」(Holly Lewis (2022), Kindle版, 248/398ページ)といった記述もあり、ルイスは大学に「退却」したアカデミアの研究者に手厳しい(厳しすぎるとも言える。下記書評参照)。セイファー・スペースについては、以前のブログ記事も合わせて参照→東大パレスチナ連帯キャンプの「セイファーテント」声明文が好きという話 - 達而録。すべての共同体主義は、境界と排除の問いを投げかける。クィアネスの実存的な性質は、越国境的・越文化的な現象であるのだから、クィア・ナショナリズムや分離主義に向かってはならない。クィア民族主義ではなく、クィアするインターナショナリズム(queering internationalism)であるべきだ。これは普遍的なクィアネス(Universal Queerness)という意味ではなく、他の抑圧・搾取された人々にその連帯を拡大するため、労働者階級と連立したクィア運動のセクションを作成するという意味だ(その人たちがクィアな人々を受け入れるか否かにかかわらず)。
     また、クィア/トランスの解放は、シス・ヘテロとして働く女性のリプロダクティブ・ライツの解放に依存する。伝統的な性差別の多くは、資本主義の下での妊娠と母性の政治経済に由来するからだ。クィアの人々は、クィア自身の解放のために、シス・ヘテロの女性のための要求を支持する大義がある(彼女たちがクィアを受け入れるか否かにかかわらず)。

  8. クィア・マルクス主義はクィアの消費習慣の分析ではない/Queer Marxism is not the analysis of queer consumption habitsHolly Lewis (2022), Kindle版, 320‐321/398ページ
     これまで、同性愛者の抑圧をマルクス主義的に分析するとなると、市場経済での同性愛者の利用の分析が主であった。なぜなら、マルクス主義者は、クィアの存在に本質的にラディカルな何かがある(クィア自体が家族に挑戦するから)という概念を買っているからだ。しかし、この概念は、資本主義は実際には家族のことなど気にしていないということを忘れている。資本主義が気にしているのは家族そのものではなく、「将来の労働力の維持と組み立てラインが中断されないようにすること」である。

    このことについては本書の第二章第八~九節で詳述されており、資本主義における労働階級の再生産が、「家族」以外の方法(たとえば労働収容所、移民の導入)によっても行われ、資本主義が家族なしでも拡大しうることが指摘されている。これらはリース・ヴォーゲル、アンジェラ・デイヴィスの議論を参照している
  9. クィア・ポリティクスは「クィアの顔をした帝国主義」に反対しなければならない/Queer politics must oppose ‘imperialism with a queer face’Holly Lewis (2022), Kindle版, 321-322/398ページ
     「ホモナショナリズム」の概念が示すように、近年のアメリカ帝国主義は、リベラルな進歩主義者に戦争を支持させるため、横暴なホモフォビアではなく、クィアの統合を奨励するようになった。2000年頃にゲイ排除を扇動したネオコンは、今はイスラエルをピンクウォッシュしている。「クィアの保護」「女性の保護」というレトリックは、「西洋に敵対する野蛮人」という物語を確立し、中東支配のための近代的・進歩的な覆い隠しになりうる。
     この行き詰まりから抜け出す方法は、占領下のクィアな人々との連帯である。イラクの「文明化」ミッションを支援するのではなく、IraQueerを支援するべきだ。ガザの占領を支援するのではなく、AswatとalQawsを支援するべきだ

    alQawsについては、以前記事にしたことがある→『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』を読んで(3) - 達而録。Wikipediaも書いたので参照→アル・カウス - Wikipediaピンクウォッシング (LGBT) - Wikipedia
  10. 収奪の根絶に向けた目標との連帯があるところにはどこにでも、クィア・マルクス主義がある/Wherever there is solidarity with the goal towards eradicating expropriation, there is queer MarxismHolly Lewis (2022), Kindle版, 322/398ページ
     「エコロジー社会主義」が必要なのは、生態系破壊への対処が社会主義の当然の関心事とは見なされていない時だけである。「ブラック・フェミニズム」が必要なのも、フェミニズムが黒人女性の問題を無視しているときだけである。そして「クィア・マルクス主義」が必要なのも、マルクス主義が性の多様性を当然のものとして分析に含めない場合だけである。
     私たちは、マルクス・フェミニズムやクィア・マルクス主義が不必要となり、収奪者から収奪する(expropriate the expropriators)ためのインターナショナルな運動、つまり伝統的かつ対立的な性差別が搾取の条件であり結果として扱われる運動だけがある未来のために、闘うことができる。それが闘うに値する唯一の未来である。

書評・批判

 書評はいくつか出ているが、同じく山村さんから教えていただいたものとして、ピーター・ドラッカー(Peter Drucker)の書評を紹介しておく。ピーター・ドラッカーは、本書と似た問題意識から執筆された『warped: Gay Normality and Queer Anti-Capitalism』(2015)の著者であり、本書に対して批判も含めて専門的見地からコメントしている。

 The Politics of Some Bodies – Against the Current

 ドラッカーは、本書がマルクス主義の社会再生産理論を用いて、現代の資本主義社会においてジェンダー・クィアの抑圧がどのように作用するか明らかにする点を高く評価する。合わせて、リズ・ヴォーゲルの主張を用いた本書の議論を補完するものとして、アイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young)の議論を紹介する。

 一方で、ドラッカーは、ルイスによる「新しいホモ・ノーマティヴィティ」概念への批判(第三章)に対しては強く再批判している。ドラッカーは、ルイスがホモ・ノーマティヴィティを唱えるクィアを批判するのは、米国において「中流階級のクィア」が「労働者階級のレズビアン」を批判する時に「ホモ・ノーマティヴィティ」という語が使われがちだからだろうとした上で、誰が闘争を起こしたとしても、その複雑さの全てにおいて、反資本主義闘争を支援する必要があると述べる(資本主義下においては、いかなる主体的立場も革命的意識を保証するものではないのだから)。また、本書では「ホモ・ノーマティヴィティ」を唱える人が同性婚に対して過度に批判的だと主張されているが、ドラッカーはこの主張も批判している。同性カップルの結婚の平等の権利の擁護と、同性愛規範的な圧力の認識とその抵抗は、両方が可能でなければならないとする。

 加えて、本書全体への注意点として、ルイスの筆致が切れ味良いがゆえに、批判対象が過小評価される傾向があること(特にインターセクショナリティ批判やクィア理論批判)も指摘している。たとえば、少なくとも上の③のインターセクショナリティ批判の文章だけを見て、インターセクショナリティ概念の批判をするのは危険だとブログ筆者は思う。

 以上で本書の紹介を終える。具体的な内容については詳述しきれなかったので、今後の記事で別途扱いたい。

注釈