閑閑空間
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「差異は差別の根拠ではない」~江原由美子に学ぶ差別の論理

2025年5月(元記事①を改稿)

 この記事では、江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫、2021、初出1985)を手掛かりに、差別とは何か、差別はどういう論理から展開されるのか、ということについて考えてみたい。

 本論文は、そもそも「差別」とは何かということを論じる論文で、流れるようなちみつな論理展開から、「差別の論理」の本質を明らかにしていく。本論の中で挙げられる具体例は女性差別・障害者差別の事象が多いものの、大筋はきわめて普遍的な議論になっており、他のさまざまな属性に対する差別においても適用できる内容であろう。1985年の論文だが今もいろあせない。「差別」について考えたくても、考えたくなくても、ぜひ読んでほしい好著であると思う。

 以下、まずは本論文の内容を、できるだけ丁寧に順に沿ってまとめた。最後に、本論文を読んで私が考えたことを書き記しておきたい。

著者の問題意識と前提

 性差別を「現実の不平等」として論じる限り、論じられる領域は極めて狭く、解決しない問題が多い。たとえば、形式的に男女の間に「平等」が確立したところで、現在女性が抱えている問題がほとんど解決しないのは明らかである。(例:一部企業で男女の平等の雇用体制が採用されたところで、現在の労働条件のままでは、それをきようじゆできるのは一部の女性にとどまる。)

 遡って、そもそも何が「性差別」なのか?そもそも「差別」とは何か?ということから考察を始めなければならない。

〈差別=現実的な利益・不利益の不平等分配〉なのか?

 「差別」が理解容易なことと思われてきたのは、「差別=現実的な利益・不利益の不平等分配」と考えられてきたからである。つまり、「現代社会は平等な社会であるべき」→「不平等は悪」→「それが差別」というロジックである。

 しかし、現代社会には、「差別」として批判されることのない「不平等な分配」は現実に山ほどある(例:能力主義に基づく昇進・賃金格差)。それは「正当なもの」として社会的に承認されているがゆえに、「差別」とはされない。また、相手に不利益を与える不当な行為が、すべて「差別」とされるわけでもない。(例:攻撃は、暴力や犯罪ではあっても差別ではないという場合がある。)ということは、差別とは、不利益を与える行為が、あたかも「正当なもの」であるかのごとく差別者と被差別者に了解される場合に生じることとなる。

 つまり、被差別者は、

差別されている、ということになる。

 ここで被差別者は差別問題に「はめられている」状況に置かれ、被差別者の怒りは(現実の不平等だけではなく、)その構造に対して向けられる。つまり、被差別者の怒りは、直接にはこうした差別の枠組み自体、その根源的な不当性と非対称性に向けられる。(例:「女性に対して男性と同等の処遇をする」という対応を取る場合。この考え方の背景には、「女性が望んでいるものは男性と同じものだろう」という思い込みがあり、その思い込み自体が差別から生まれているという認識がない。そこに対して被差別者は怒りを向ける。)

 被差別者が怒りを言語化し、差別を告発するためには、不当であることを「直感」した上で、「告発の論理」を立てなければならない。しかし、不利益を被る理由が巧妙に正当化された社会の中では、その言語化・意識化の糸口をつかむことすら難しくなってしまう。

差別の本質は不平等分配自体ではない

 差別が複雑ないしきてき・言語的装置であることを理解せず、「差別=平等にそむくもの」と簡単に考えても、差別はなくならない。つまり、「平等」の価値が前提とされ、現実的な不平等性が指摘されるだけでは、差別を論じることはできない、ということである。

 それどころか、差別する側の悪意がすべての「差別」の原因として正当化の論理に用いられ、被差別者に新たな非難を加えるだけになる。差別する側はじめいに「良い」、差別される側は自明に「悪い」という構図が繰り返されるだけになる。

差別者の意識に焦点を当てる研究

 近年の研究では、差別者の側の差別意識・差別心理・アイデンティティ問題に着目するものがある。これらは、差別者の側の不安感や不満感を見いだし、それが被差別者に向けられてスケープゴートを生み出す過程を明らかにする。そして、被差別者の側は、自らのアイデンティティを受容できず、差別者側の価値観を受容し、差別の共犯者となってしまうことも指摘する。

 ただ、この研究でも足りない部分がある。理由は以下である。

 差別は、利益を求める目的がある行為ではなく、病的な異常心理でもない。それは、差別者も被差別者も共有する社会規範や社会意識に根拠を持つものである。差別を意図によって説明することは不適切で、よって倫理的批判で解消することもない。また個人の心理的傾向によって生まれるわけでもない。

反差別の言説の構成要素

 アルベール・ミンミによる「差別主義」の定義は、「現実上の、あるいは架空上の差異に普遍的・決定的位置づけをすることであり、この位置づけは差別者が己の特権や攻撃を正当化するために、被害者の犠牲をもかえりみず己の利益を目的として行うものである」というもの。ここから、差別に対する批判(反差別の言説)を組み立てるのならば、以下のようなロジックになると想定される。

  1. 現実上の、あるいは架空上の差異が「存在しない」、あるいは存在したとしても「それは大きな差異ではない」ことを強調し、差異の存在それ自体を否定することによって、差別を批判する。
  2. 差異の存在は認めるとして、その際に被差別者に不利をもたらすような価値付け、すなわち「よい」「わるい」といった被差別者の価値を低下させるような価値付けを批判する。
  3. 差異、あるいは評価づけがどうであろうとも、不平等な待遇は不当であるとして批判する。

 実際、現在の「反差別」の言説は、以上の三つの構成要素からなることが多い。

三つの言説の関係性

 しかし、これらの批判は正当すぎるぐらい正当であるにもかかわらず、有効な批判にはならないことが多い。背景には、この三つの要件の絡まり合いがある。

 まず、(3)から、「不平等な待遇はいかなる状況においても許容されるべきではない」と言っても、問題は全く解決しない。なぜなら、そもそも「不平等な待遇」が「不平等」として認識されていないことに問題があるからである。

 すると、不平等を不平等として認識させる論理が必要とされる。そのために、「差別者と被差別者は同一のカテゴリーだ」ということを主張せざるを得ない(もともと差別者と被差別者には「差異」があるということにされて異なる待遇が正当化されているため)。これが(1)の主張である。

 しかし、この(1)の主張は、(2)と関連せざるを得ない。なぜなら、常識として認識されている「差異」は、必ず特定の問題枠組みによって評価された「差異」だからである。

 我々の認識の構造として、「事実」と「評価」のしゆんべつは困難である。たとえば「男女の能力差はあるか?」という問いが出された場合、「ある」「ない」といった「答え」が出され、これが「事実」として認識される。しかし、そもそもこうした問いの構図自体が(つまり「男女の能力差はあるか」みたいな問題設定の仕方自体が)、特定の能力を良しとする「評価」の枠組みの中に位置することを、我々はどうしても認識しにくい。だから、(2)から「差異の指摘」をするとき、評価的意味を含まずに行うことは困難である。

 以上のように、反差別の言説は(1)~(3)をすべて論じざるを得なくなる。すると、反差別の言説は、すべて「差異」をめぐって展開するということになっていく。(例:「女と男は違うのか、違わないのか」という議論。)

差異をめぐる議論は内部対立を生む

 差別であることを問題として立てるためには「差異はない」と言わざるを得ない。しかし、差異は被差別者の側にとって、依拠すべきアイデンティティである場合も多い。「差異がない」という主張は被差別者からの反発を招く。

 よって、「差異」と「差異の評価」、「現実的不平等」を区別することで「差別の論理」を打ち破ろうとし、正当な議論を立てても、結局個別的状況においては矛盾する。そして内部対立が生じ、「反差別の言説」を成立させることは難しくなる。

差異の内容を分節する方向性

 この内部対立を、「差異」の内容を分節・分類することによってこくふくしようという方向性もある。つまり、「否定すべき差異」と「肯定すべき差異」を区別し、前者は偏見や現実的諸条件を変革することによって克服し、後者は逆に積極的に受容しようと考えるわけだ。一例が、「差異」を以下の三つに分類する方法である。

  1. 身体的・自然的差異
    • 障害者・老人・女性など、身体的・自然的水準での差異
  2. 社会的・文化的に構成された差異
    • 財産・教育・労働条件といった「現実の不平等」から生み出された「能力」「意欲」「意識」などにおける差異
  3. 支配的集団の偏見としての差異
    • 支配者集団が被差別集団に対して与える「偏見」

 そして、③を批判し、②には現実の不平等を無くして「構成された差異」自体をなくし、①はむしろ積極的に承認し、①の差異を受容する豊かな解放のイメージによる運動の構築を是認する、という方向に向かっていく。

 これは、現在かなり一般的で、妥当なように見える。被差別者側から自らのアイデンティティを積極的に提示したい場合もあることを忘れてはならないし(例:「ブラック イズ ビューティフル」という言葉)、そうした可能性をも開く言説にはなっている。

「女性」を身体的に同じ「差異」を持つ存在としてとらえるのは、トランスジェンダー差別につながる表現という指摘はしなければならない。実際、この江原の論文に男女二元論への直接的な問いかけがあるわけではない。ただ、最後まで読むと、議論全体の帰結としては、「自然的差異」といった問題化の仕方に乗ってはいけないという話になるので、いま読んでもそれほど違和感がないと私には感じられる。

本論文で提示したい根本的な疑問と主張

 しかし、ここで我々は、「そもそも実在的な「差異」が「差別」の根拠になっているのか?」という根本的な問いを立てなければならない。もし、差異が差別の根拠ではないのなら、差異の内容をいくら論じても差別を明らかにすることにはならないからである。

 実は「差別」現象においては、被差別者はその属性や特性がそれ自体として問題になることはない。被差別者は、外見的・可視的な「標識」によって認知され、それだけで排除されている。(そもそもメンミが「差別主義」の定義で述べた「差異」も、こうした「標識」の意味での差異である。)

 つまり、「差異の実在的な内容」に詳しく立ち入って論じることは、「差別」現象を明らかにすることとは無関係である。そもそも差別は差異を根拠にしていないからだ。

差異は差別の根拠ではない

 差異の内容に詳しく立ち入って論じることは、「差別」現象を明らかにすることとは無関係である。差別は差異を根拠にしていない。「差別」現象においては、被差別者はその属性や特性がそれ自体として問題になることはない。被差別者は、外見的・可視的な「標識」によって認知され、それだけで排除される。

 よって、あたかも、現在の差別者と被差別者の間に、実在的な「差異」が存在し、その内容的なぎんみこそ「差別」問題の解決の鍵であるかのように仕立てるのは、根本的に誤っている。むしろ、これこそが差別の論理のかんてつを許してしまうものである。

 ここから、以下のことが指摘できる。

被差別者だけが自己の主張の倫理性を断罪されること

 よって、被差別者だけが、自己の主張の倫理性を断罪されるのはおかしい。以下が具体例。

 このようにして、被差別者の側に分断をもたらし、相互の理解を不可能にさせるものこそ、「差別の論理」である。しかし、そもそも「なぜ被差別者だけが、自分の属性に対して、それが身体的属性なのか社会的属性なのか偏見なのかなどという区別を要求されなければならないのか」ということが問われなければならない。

本来のさいせいを感受できなくなる

 そもそも差別における「差異」は、「被差別側の固有の、特殊な属性」として規定される。しかし、自然的・身体的次元の「差異」だけに限定しても、「差異」は、性別や、健常/異常とかいった枠を超えた、より多様なものであるはずである(全く同じ人間などどこにもいないのだから)。このたようせいへのかんじゅせいそうしつさせているものこそ、特定の「差異」だけの強調である。

 「差別の論理」の指摘する「差異」だけに着眼し、性別や健常/異常の「差異」だけを自然的・身体的次元に限定して論じたところで、その「差異」が自然なもの、実在的なものであるとは言えない。差別の論理によって一部の差異だけが取り上げられてしまっているからである。

 よって、「差別の論理」によって示される「差異」を実在的な「差異」として肯定することは、かえって、特定の社会・文化的条件が課す認識装置をふへんてきなものとして絶対化していくことになる。それは現実の豊かな「さいせいの世界」に対する感受性を失わせてしまう故に、逆の効果しか持ち得ない

 以上から、解放のイメージの提示をすることも重要だが、それと同じぐらい、差別の論理の巧妙な仕掛けと、反差別言説に強いられる困難性の解明が重要であることが分かる。

差別の論理の不当性

 以上をまとめると、「反差別言説の困難さ」は、「差別が被差別者にしかけられた問題ということを理解せず、「差別の論理」が設定する問題の枠組みにそのまま乗ってしまい、その問いの内部で立ち往生してしまう」ことにある。つまり、差別の論理が立てた「問い」をそのままに、「答え」の不当性にばかり議論を持って行ってしまうのである。

 差別の論理は、あたかも「差別問題を解く鍵」が「差異をめぐる認識の是非」にあるように問題をしくむ。その結果、被差別者は反差別の主張のため、特定の差別者-被差別者の差異の認識を否定しようとし、「差別者の誤った認識」を「差別者が持つ特定の利益や意図」につなげて説明することに追い込まれる。

 しかし、この議論も上手くはいかない。その理由は以下にある。

排除行為としての差別

 差別とは、本質的に「排除」行為である。差別意識とは単なる偏見ではなく、排除行為に結びついた偏見である。排除とは、そもそも当該社会の「正常な」成員として認識しないということを意味する。

 そのため、差別は差別者の側に罪悪感を抱かせない。なぜなら、われわれが他者に対して罪悪感を抱くのは、他者を正当な他者として認識したときだけである。

 つまり、排除するために必要な他者の認知は、最小で良いのである。「排除すべきカテゴリーに属するか否か」を知れれば良く、それ以上知る必要は無い。被差別者は特定の指標でもって簡単に排除され、それ以上の認知は行われない。

 このことからも、差別が実在的な「差異」やその評価づけゆえに生じると考えることが誤りであると分かる。「現実に被差別者がいかなる特性を持つのか」「それが差別者といかなる差異があるのか」といったことを、差別者は考えようとしない。実際、過去の様々な差別において「差異」とされるものは、時代によって変化し、その社会において「正当」とされる価値観に依拠する。(例:ジプシーに対する差別は、中世社会においては「宗教的差異」が根拠で、今日は「住民登録の有無」が根拠であるとされる。)

差異の定式化こそ「差別の論理」の装置である

 つまり、「差異の定式化」は、差別という現象を説明し、論理化する「差別の論理」の装置に過ぎない。(例:「女性は男と同じであるか、違うか」という問いの二者択一をせまる。これはどちらを答えても不利益が予想され、本質的に不当な問いである。)

 実際のところ、誰もが知っているように、社会の中には実に多様な人々が存在する。当然、各々に固有の状況がある。なぜ、差別者と被差別者の間の「差異」だけが、カテゴリーとして取り上げられる必要があるのだろうか?

 ここからも、差別があたかも「実在の差異」にもとづくものであるかのように論理化されていることが分かる。実在の差異がある場合もあるかもしれないが、差別はそれゆえに生じているのではなく、単にそう見えるだけである。

 たとえば、障害者差別・性差別においては、一見すると能力や身体的条件の差異によって差別されているように見えるが、実際はそうではない。仮に「能力・身体的条件」それ自体が差別の根拠なら、「障害者」や「女性」を排除する論理はそもそも必要とされないはずだ(能力・身体的条件だけを取り上げれば良いから)。実際は逆で、能力・身体的条件の測定は非常に困難で明示的ではないのに対し、「性別」や「障害の有無」は明示化させられるとされ、それが能力・身体的条件の指標とされる、という順序で差別が生じている。結局のところ、女性や障害者は、女性であるゆえ、障害者であるゆえに差別されているのである。

 言い換えれば、「女性は女性のこゆうせいとくしゆせいによって差別されているのではない」ということになる。それらはそもそも差別者の考慮の外にある。差別においては、女性は単に「男ではない」標識を持つ者として意識されており、女性は能力や適性をそれ自体として認識されるべき位置にいない。そのことこそが差別である。

差別の論理のまとめ

 AがAバー(=Aではないもの)を排除する(理由は「Aではない」から:どうぎはんぷく)。Aバーが「B」という属性を持ち、AはBを持たない(ノットB)ことが主張され、それこそが「排除化の根拠」であるように意識される。

 女性が男性から排除されるのは、「女性が男性ではないから」というだけである。しかし、あたかもその根拠は女性に帰属される属性(B)のせいである、というように仕組まれる。「ノットAはAではないから差別される」だと、トートロジーで不当性が明白になってしまうため、「ノットAはBである」という等式を持ち出し、差別の実在的根拠として提示する。

 つまり、差別者/被差別者を、「被差別者のゆうちようせいと差別者のむちようせいとして描き出すのが差別である。

 差別者の側には、被差別者に対する攻撃や悪意など全くない場合がほとんどで、被差別者からの告発に対しては「いわれのない非難を被った」としか思わない。立証できない告発は告発者の方が非難される。

 差別の不当性は、こうした非対称的なカテゴリー使用自体にある。問題設定自体の不当性、非対称性を明確にしていくしかない。それなしに差別の解明はない。差別という現象の、いしきてきげんきゆうてき水準での把握、その問題設定自体の非対称性・不当性を明らかにする必要がある。

感想と考えたこと

 以上、非常にロジカルな分析であるが、その背後に、著者が差別に対して闘い続ける中で経験させられてきたこと(不当な批判を浴びたり、相手に話が全く通じなかったり、一緒に闘っていると思っていた人に刺されたり…)があると分かるのが痛切なところである。

 特に議論の中盤では、差別に反対するために、相手に納得してもらえるような言葉を編むときのジレンマが分析される一段があるが、これは実際に著者自身が通った道なのだろう。

 本論は40年前の論文であるが、「差別」に向き合うときに認識しておくべきこととして、今なお通用する原則を多く含んでいる。改めて、抜粋して掲げておこう。

 このうち三点目について、もう少し詳しく考えてみたい。

 たとえば、関東大震災の朝鮮人虐殺では、「日本語をスムーズに話せるかどうか」という「標識」をもとに排除された(その人が本当に日本人か朝鮮人かがいちいち判断されたわけではない)。パリオリンピックでは見た目でトランスジェンダー女性と判断された人が見るに堪えない酷い扱いを受けているが、これも「見た目の標識」から排除の対象として選ばれただけで、その人が本当にそうかということを差別する人が確かめるわけではない(この現象には有色人種差別も交差している)。女性差別も同じで、その人が本当に「女性」なのかなんてことは気にされず、外部から分かる標識から「女性に見える人」が差別されている。

 最近は「多様性」という言葉がよく取り沙汰されるが、そこで強調されるのは、差別の論理で取り上げられる「差異」だけであることが多い。多様性という言葉を用いながら、かえって差異に対する感受性が失われてしまっては、意味が無いどころか、差別を加速させたり、新たな排除を生むことにつながったりするだろう。

 これと関連して、トランスジェンダーのスポーツ大会参加について、井谷聡子さんは以下のように述べている。

 人間の体は複雑で、生まれつきの性差だけで運動能力が決まるわけではありません。生まれた地域や育った環境など、社会的な要因も影響します。IOCも21年に発表した枠組みの中で、トランスジェンダーや体の性の多様な発達を持つ選手が、不当に有利だという仮定はできないと明示しています。

 ところが、トランスジェンダーの女性だと分かった途端に、選手の持つ様々な能力や努力が無視されて、「生物学的な性差」だけに注目が集まり、「不公平」だと受け止められてしまいます。

朝日新聞--誹謗中傷を世界に拡散させた「政治的背景」とは 五輪女子ボクシング、2024年8月20日閲覧

 この指摘からも、もともとさまざまな差異があるなかで、一つの差異だけを取り出して議論すること自体が、差別的であるということがよくわかる。

「はめられた」側が差別者になりうるということ

 本論に戻って、「あたかも現在の差別者と被差別者の間に、実在的な「差異」が存在し、その内容的な吟味こそ「差別」問題の解決の鍵であるかのように仕立てる」ことこそが「差別の論理の貫徹を許す」という指摘は、非常に重いものである。というのも、実在的な差異にこだわる議論をすることは、最初は「仕方なく陥ってしまう論理的要請」として擁護されるかもしれないが、それを繰り返すのは「差別の論理の貫徹を許す」、つまりそれこそが差別であるという指摘として受け取れるからだ(この解釈は私の意思がかなり入っているが)。

 差別の論理から離れられないということは、それ自体差別的な議論になりえる可能性をもつわけで、いずれ差別そのものと区別がつかなくなっていくだろう。私はこの話から、差異の議論にはめられた被差別属性の論者(例:かつてのフェミニスト)が、その後にトランスジェンダー排除言説を唱えていく過程を想起する。(1985年の論文でありながら色褪せないと私が思えるのはこうした点にある。)

「差別の論理」は他の差別にも当てはまる

 本論文で具体例として挙げられるのは、女性差別・障害者差別が主で、他にジプシー差別が少し触れられる。ただ、何度も述べてきたように、本論文の議論は「差別」現象に普遍的に当てはまるものだと思う。最後に、この「差別の論理」に他の差別の構造を当てはめながら、より考察を深めたい。(以下の例は、差別の中のごく一部の事例しか取り上げられていない点はご注意いただきたい。)

 まず、この極東の島々でよく見受けられる「在日朝鮮人差別」について考えてみたい。

  1. 日本人(A)が在日朝鮮人(Aバー)を排除する。
    • この際、その人が本当に在日朝鮮人かどうか、実際どんな人か、などを詳しく知ろうとはしない。=外在的な標識で差別される。認知は最小で良い。
  2. 排除の理由は「日本人ではないから」=同義反復
    • なお、そもそも在日朝鮮人が「日本人ではない」ように仕組まれたのは、1945年の参政権停止、1947年の外国人登録令(在日朝鮮人は「みなし外国人」となる)、1952年に在日朝鮮人・台湾人が無権利外国人となる、といった国家施策による。
  3. 在日朝鮮人に別の属性(B)が勝手に結びつけられる。日本人はBバー(Bがないもの)とされる。=差異の定式化
    • 例「税金を払ってない」:実際には所得税も消費税も保険料も国籍がなんであれ払っている。(また、そもそも払えなかったとしても必ずしもその人に責任があるとは言えない。)
  4. Bを理由にAバーの排除(不平等な待遇)が正当化される。
    • 例:「税金を払ってない」のだから、「選挙権がない」「朝鮮学校にだけ補助金が出ない」のだ、等。
  5. しかし、Bが不平等な待遇の根拠なのであれば、そもそもAバーを持ち出して排除する必要はないはずである。
    • 税金を払ってない人は、国籍がなんであれ、いずれ然るべき機関が取り立てるのであって、「在日朝鮮人」という属性を持ち出して不平等な待遇を強いる必要はない。
  6. こうした差別に対する議論をしようとすると、定式化された差異だけが取り上げられ、個々人の固有の状況は閑却される。
  7. 結局、在日朝鮮人は在日朝鮮人であるがゆえに差別されており、不平等な待遇の正当性などない。

 次に、「トランスジェンダー差別」について考えてみたい。

  1. シスジェンダー(A)がトランスジェンダー(Aバー)を排除する。
    • この際、その人が本当にトランスジェンダーかどうか、実際どんな人か、などを詳しく知ろうとはしない。=がいざいてきひようしきこせき・体型・服装など)で差別される。認知は最小で良い。
  2. 排除の理由は「シスジェンダーではないから」=同義反復で納得されない
    • なお、そもそもトランスジェンダーが「シスジェンダーではない」ように仕組まれたのは、男女二元的なシステムによるもので、直接的には戸籍制度といった国家施策による。現実に生きる人々の性のあり方は、必ずしも二元的にはとらえきれない。
  3. トランスジェンダーに別の属性(B)が勝手に結びつけられる。シスジェンダーはBバーとされる。=差異の定式化
    • 例「トランスジェンダーの存在により男女別スペースを犯す性犯罪者が増える」:シスジェンダーにもトランスジェンダーにも性犯罪者はいる。(むろん、そもそも男女分けスペースという場の作り方への問いかけがなされないのも問題である)
  4. Bを理由にAバーの排除(不平等な待遇)が正当化される。
    • 例:男女分けスペースから排除される
  5. しかし、Bが不平等な待遇の根拠なのであれば、Aバーを持ち出して排除する必要はない。
    • 例:性犯罪者は、その人の性自認が何であれ裁かれるべきであり、トランスジェンダーを持ち出す必要はない。
  6. 以上の差別に対する議論をしようとすると、定式化された差異だけが取り上げられ、個々人の固有の状況は閑却される。
  7. 結局、トランスジェンダーはトランスジェンダーであるがゆえに差別されており、不平等な待遇の正当性などない。

 さて、こうして他の事例を合わせて考えてみると、本論文にもいくつか気になることがあると分かる。あまりまとまっていないので、以下にメモ形式で列挙しておく。

注釈