閑閑空間
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卒業論文を読み返す試み

2025年3月

 以下に掲載されているのは、私が学部を卒業する時(2018年度)に書いた卒業論文「王充と司馬遷」を、体裁だけhtmlに整形したものである。誤字や内容の誤りに気が付いても全部そのままにしている。日本語が堅苦しくて読みにくいうえに、旧漢字も混じっている(そのわりに統一されていない)がこれもそのままにしている。

 ただ、そのまま載せても意味が無いので(というかツッコミどころが多すぎてそのまま載せるのは憚られるので)、ポップアップ()で現在の私がつけた注釈が出てくるようにしておいた。

 これを作った目的は、中国古典の研究を志す学部生に向けて、「私はだいたいこういうレベルの論文を書きました」ということを伝えるためである。レベルの高い卒業論文を後に修正して雑誌に投稿した話は聞いたことがあるが、卒業論文を文字通り「そのまま」公開することは滅多にないと思う。あまり良い論文ではないのだが、一つの目安にでもしていただければ嬉しい。

 ちなみに、王充の研究は卒論以降はやっていない。裏テーマとして、久々に見返すことで今後の自分の研究のヒントを得られないか、ということも考えながらやってみた。資料整理方面ならやってみたいことが見つかったが、この研究の延長ということは今は考えていない。

 

王充と司馬遷

1.序論

 司馬遷は、前漢期の歷史家であり、現代に至るまで正史の代表の一つと目される『史記』を著した。

 王充は、後漢期の思想家であり、廣範な事象に対して特徵的な主張を展開する『論衡』を著した。

 『史記』と『論衡』は、これまで殆ど關係性が論じられることの無かった書物であるが、實は幾許かの共通點を有している。 勢いで「論じられることの無かった」と書いているが、後で先行研究が色々引かれるように、すでに論じられているところはある。本論では、雑多な先行研究を切り貼りして論文にしているところがあるが、こういう方法よりは、「これぞ」という論文を取り上げて、批判するところ・継承するところを明確に論じていく方がよいと思う。

 この「共通點」については本論冒頭で論じることにして、ここでは『漢書』について言及しておきたい。これまで『史記』と對照されてきた後漢期の書物として、當然擧げられるべきはその後を繼ぐ『漢書』である。班氏父子が王充と深い關係にあるとされている點から考えても、『漢書』への言及は避けられない。確かに、直接の系統として『史記』から『漢書』へという繼承關係があることは事實である。しかし『史記』と『漢書』には決定的な相違點があり、その點が前代から議論の對象になっていた點も、また事實である。 この一段は『漢書』の話を後から付け足した感があって読みにくい。また、本論を読むと『論衡』が主軸なのに、ここでは『史記』と『論衡』を横に並べて見ている感じがして、内容に合っていない。

 本論文では、『漢書』に受け繼がれなかった『史記』精神とでも言うべきものの一部分が、何らかの形で『論衡』に引き繼がれていると言えるのでは無いか、という視點から考察を進めてみたい。これら三著の對照的な關係は、史學史、思想史の兩面に於いて意義深いものである。『漢書』との比較の中で、『史記』と『論衡』の關係性を探求できるのではないか、またもう一歩踏み込めば、その影響關係を論じられるのではないか、という點が本論文に於ける最大の問題提起である。 今ならこういう大上段に振りかぶった書き方はしない。また、「引き継がれたか、引き継がれなかったか」という問いの立て方だと、どうしても議論が貧弱になってしまうので、もう少し踏み込んだ問いの立て方を試みるべき。

 さて、司馬遷思想や司馬遷史學そのもの、または王充思想そのものに對する過去の硏究の蓄積は厖大であり、各論に於いて一應の定論があるものと考えて良い。しかし、上のテーマを論じる際に必要となる、「『論衡』に於ける司馬遷論・『史記』論」については、論を盡くされているとは言い難い

 そこで本論文では以下のような方法論を取り、考察を進める。

 まず、序論の補足として、『史記』と『論衡』に見られる共通性をそれぞれへの硏究をもとに簡潔に指摘し、問題提起を行うとともに議論の土臺を提供する。

 次いで、『論衡』内に於いて『史記』と司馬遷について論ずる段を分析する。 このテーマなら、王充が『史記』について直接議論する段だけを見るのではなく、王充が『史記』をどう引用しているかについて綿密に調査した資料を作る必要があったと思う。そもそも王充が見た『史記』はどういう形態のものだったのか?といった根本的な疑問が明らかにされていない。

 王充は、司馬遷に限らず數々の兩漢代の學者について論じているが、その人物評論には當然ながら王充自身の思想の色濃い投影が見て取れるため、表面的な理解では王充の意圖を見落としてしまう恐れがある。王充による人物評價、これは廣く言い換えれば「王充の賢人論」ということになるが、幸いこのテーマは王充思想の特徵の一つと目されており、王充の賢人論の構成については多數の先行硏究が存在する。ここでは、先行硏究に依據し王充思想の枠組みから離れないように意識しつつ、王充の司馬遷論を整理する。

 最後に、『史記』と『論衡』の共通性について、以上の『論衡』に於ける司馬遷論・『史記』論を踏まえ、より直接的な視點から考えてみたい。ここでは特に、『漢書』には無いが『史記』と『論衡』には見受けられる共通点を問題とする。『漢書』との比較を通して『史記』と『論衡』の著述精神や史學方法論に於ける共通性について論究することで、兩著の關係性の問題に一つの回答を提示することができるものと期待される。 以上、王充の考えに入り込んでいくような方向性が示されているが、唐代~宋代の人の『史記』『論衡』評価を比べるとか、思想史的な方向から議論をすることも必要だと思う。

 『論衡』のテキストとしては『論衡校釋 附劉盼遂集解』(中華書局本)を用い、文字の校勘や譯注のため適宜『新釋漢文大系 論衡上・中・下』(山田勝美、明治書院)を參照した。尚、『論衡』本文からの引用文は、この頁以下のものに關しては篇名のみを示した。『史記』『漢書』『後漢書』は中華書局本を用いている。 『論衡』には善本がないのが大きな弱点である。『論衡』自体は面白い本でまだまだ研究の余地があると思うが、博士課程までこれ一本で続けられるテーマかというと、あまりおススメはできない。「いい本が無い」というだけで研究の難易度は跳ね上がる。

班彪は王充の師とされる(『後漢書』王充傳「後到京師、受業太學、師事扶風班彪。」)が、両者の師弟関係の有無については複数の議論があり、呉從祥「王充“師事班彪”考辨」(『荊楚理工學院學報』第26巻、41~43頁、2001)に整理される。 本論のテーマから言って、これは改めて精査すべき問題だと思う。 王充の學者評論を整理した周桂鈿「廣評諸子」(『秦漢思想硏究Ⅲ 虛實之辨』211~253頁、福建教育出版社、2015)、『漢書』以前の『史記』評價を整理した嘉瀬達男「諸子としての『史記』―『漢書』成立までの『史記』評價と撰續状況の檢討」(『立命館文學』590号、1~18頁、2005)に、それぞれ異なる觀點から一部取り上げられている。 前揭周論文には、陸賈、賈誼、公孫弘、董仲舒、司馬遷、主父偃、東方朔、司馬相如、劉安、劉向、劉歆、揚雄、桓譚、谷永、班彪、班固、楊終、賈逵、周樹の名が挙げられる。(234頁) 佐藤匡玄「王充における理想的人間像」(『論衡の硏究』269頁~303頁、創文社1981)、戸川芳郎「王充人格論辨説」(『漢代の學術と文化』394頁~418頁、硏文出版2002)、大久保隆郎「王充の人材論」(『王充思想の諸相』639~731頁、汲古書院2010)など。

2.本論

 序論に述べた方法論に則り、論證を進める。

2-1.『史記』と『論衡』の共通性

 まず、序論の補足として、『史記』と『論衡』の共通性を簡潔に整理し、問題提起を行う。

 第一に、兩者ともに「非儒家」の性質を備えている點を共通性として擧げる。

 『論衡』が儒家に分類されず雜家に分類されるのは過去の書目分類の通りであり、ここではこの點を言及すれば十分だろう

 『史記』は目錄上六藝略春秋類、史部に屬するが、その思想に非儒家的、雜家的な性格が認められることについては、過去様々な角度から指摘がなされている。例えば川勝義雄氏は、太史公自序の考察を通して、司馬談・遷父子の間で、「道」の哲學を元に諸學を體系化し統一することが大目的として措定されていたことを指摘する。同様に、吉本道雅氏は、太史公自序並びに伯夷列傳への考察を通して、「『史記』は道家思想を基調とする諸學の統合を史書の形式で實現するという一面」があることを指摘する。更に、嘉瀬達男氏は、揚雄・桓譚といった初期の『史記』論に、『淮南子』とともに「多」「雜」といった語が多く與えられることを指摘する この一段に典型的だが、全体として、『史記』や『論衡』の原文に取っ組み合わずに、先行研究を上手く組み合わせて論文の形にした感じがする。枠組み先行に陥っている感もあり、もっと原文との格闘を通して自分なりの文章を紡いでいくべき(私もこれができるようになったのは博士以降だが…)。

 この兩者の、儒家に對して一定の距離を置く性質は、經學を基礎とする絶對主義的傾向を指摘される『漢書』とは大いに異なる點であり、『史記』と『論衡』の共通性を際立たせる。尤も、上で道家に基づく諸学の統合が彊調される『史記』の思想の方向性と、注5の参考文献に指摘される『論衡』の思想の方向性を、同じ括りで捉えることには無理があろう。ここではあくまで、儒教との距離感を考える時、『史記』と『論衡』に共通性が認められることを指摘するのみである。三著の關係は複雑であり、これらの傾向が實際に兩書の中でどのような形で認められるのか、という點については議論が必要である。

 第二には、客觀的事實や史實を重視する精神性を共通點に擧げる。「論衡篇十を以て數ふるも、亦た一言なり、曰く『虛妄を疾む』」と宣言され、客觀的根據を元に事實を明らかにすることが主題の一つである『論衡』と、「我之を空言に載せんと欲すれども、之を行事に見すの深切著明なるに如かざるなり。」と記される『史記』とは、もともと事實・史實を重視する姿勢が共通して認められるだろう。尤も『漢書』も史書である以上、この姿勢に大きな差があるようには考えにくい。しかし先に指摘した點と合わせて考える時、その考證に差が生まれることも考えられる。

 第三には、兩著とも周以前から彼らが生きた當代に至るまでという廣範な時代を對象としている點を擧げる。表面的な指摘だが、斷代史である『漢書』と比較されるとき、示唆的なものとなる。 『漢書』にも「古今人表」など必ずしも断代史とは言えない要素がある。

 『史記』と『論衡』は當然ながら、その形式に於いては大いに異なっている。『論衡』の言を借りれば、『史記』は「述」の書であり、『論衡』は「論」の書である。そして『漢書』は當然「述」に當たるだろう。直接の系統としては、言うまでも無く「『史記』から『漢書』」である。しかし、『史記』と『漢書』の相異點に於いて、『史記』はむしろ『論衡』とその共通性を示す。その事象を具體的に比較することにより、「『史記』から『論衡』」という關係を見出すことができないだろうか。 こうした前提の整理のところで、王充という人の人生や学問的な背景を一周洗っておきたい。司馬遷と王充は200年近く離れているわけで、そもそも王充はどこでどういう方法で『史記』を読んだのか、といったところも考え甲斐のある問題。

 兩著の關係を考える時、王充が司馬遷並びに『史記』をどのように捉えていたのか、という點を明らかにすることが必要となろう。まずはその考察から行う。

『論衡』は『隋書』經籍志、『四庫全書總目提要』など、基本的に子部の「雜家」「雜之部」に分類されるが、若干の議論がある。例えば『中国思想通史』第三巻(人民出版社1957)は、『論衡』は「合」でなく「通」の書であり、雜家に分類することを不當とする。また、周桂鈿「自成一家」(『秦漢思想硏究 王充評傳』176~194頁、福建教育出版社2015)も、『論衡』を「難爲雜家」と称する。大久保氏の「『呂氏春秋』と『論衡』」(前揭大久保本、139~162頁)は以上の論點を整理しつつ雜家で問題ないと結論付ける。但しいずれも非儒家的性格を認めている點では共通しており、ここでは大きな問題とはならない。 川勝義雄『史學論集』(44頁、朝日新聞社1973) 吉本道雅『史記を探る』(214~220頁、東方書店1996)。ここで、吉本氏が合わせて、前漢當時の道家が他學派との相違を強調するものでなく、『淮南子』に代表されるようにそれらを柔軟に包括しつつそれらを統合する、雜家としての一面を有していたことを指摘する點も見逃せない。 前揭嘉瀬論文、9頁。 尚、狩野直喜「司馬遷の經學」(『讀書籑古』1~17頁、弘文堂1947)など、司馬談=道家、司馬遷=儒家と見る説もあるが、ここでは上の三氏の説に從う。 前揭重澤論文、21頁 原文「詩三百一言以蔽之曰思無邪、論衡篇以十數亦一言也曰疾虚妄。」(佚文篇) 原文「我欲載之空言、不如見之於行事之深切著明也。」(『史記』太史公自序、董仲舒の言の中で孔子の言として引用される部分。) 対作篇「太史公書、劉子政序、班叔皮傳、可謂述矣。桓山君新論、鄒伯奇檢論、可謂論矣。今觀論衡政務、桓鄒之二論也、非所謂作也。」

2-2.『論衡』における司馬遷と『史記』

 ここでは、『論衡』に見える『史記』論、司馬遷論について、分析を加える ここまでの話はあまり面白くないが、この節の議論は原文を丁寧に参照しながら一応うまくまとめてあると思う。この節を中心に、内容を分厚くしていけば、もう少し内容のある卒論になったと思う。

 最初に斷っておかなければならないことは、『論衡』に於いて『史記』の影響をはっきり述べる言は見えないという點である。つまり共通性を指摘することは可能でも、その影響關係を論證することは困難である。

 しかし、それは本論文に於いて『論衡』に於ける『史記』論を論ずることが無意義だ、ということにはならない。むしろ直接的な言がないからこそ、その論が重みを増すと言っても良いだろう。例えば王充が『史記』を「ただの歷史記錄の書」としか考えていないという結論が導かれた場合は、兩著の影響關係を否定する方向に向かうことになる。

 まずは、王充の賢人論に則りつつ王充の司馬遷論を俯瞰しよう。

 王充の賢人論には幾つかの系統があるが、程材篇~超奇篇の五篇はその一つである。そして漢代の學者それぞれへの評價を述べる總論が超奇篇にまとめられ、そこに司馬遷評價も組み込まれていることから、この五篇を基礎に据えると王充の司馬遷論を考える上で有効となろう。この分野に對する先行硏究は注4に擧げたように盛んであるが、ここでは戸川氏の論を中心に整理する

 戸川氏は、この五篇を、儒生・文吏の論(程材篇・量知篇・効力篇)と、儒生の序列付けの論(効力篇・別通篇・超奇篇)に大きく二分し、更に後者を、知識の質的・量的な高低を基準にする効力・別通篇と、「文」の要素を基準に含める超奇篇とに分けて把握している

 實はこの「文の要素」という評價軸が、王充による司馬遷論に大きな關わりを持つのである。「文の要素」が評價軸として與えられていない別通篇に於いて、最高の賢人は以下のような言で評價される。

 〇夫富人不如儒生、儒生不如通人。通人積文十篋以上、聖人之言、賢者之語、上自黄帝、下至秦漢、治國肥家之術、剌世譏俗之言、備矣。(夫れ富人は儒生に如かず、儒生は通人に如かず。通人文を積むこと十篋以上、聖人の言、賢者の語、上は黄帝より、下は秦漢に至るまで、治國肥家の術、剌世譏俗の言、備はれり。)(別通篇) 当時は訓読を使っているが、今は論文を書く時には日本語訳を示すようにしている。細かなニュアンスや省略を明示したいとき、訓読には限界があり、人の論文を読んでいて困った経験が多いため。

 〇通人胸中、懷百家之言。(通人の胸中、百家の言を懷く。)(別通篇)

 〇故夫大人之胸懷非一、才高知大。故其於道術、無所不包。學士同門、高業之生、衆共宗之。何則、知經指深、曉師言多也。夫古今之事、百家之言、其爲深多也。豈徒師門高業之生哉。(故に夫れ大人の胸懷一に非ず、才高く知大なり。故に其の道術に於けるや、包まざる所無し。學士門を同じくするも、高業の生、衆共之を宗とす。何となれば則ち、經指を知ること深く、師言を曉ることの多きなればなり。夫れ古今の事、百家の言、其の深多たるは、豈に徒だ師門高業の生のみならんや。)(別通篇)

 王充による司馬遷への評價は、この「通人」像とよく一致する。

 〇太史公、書漢世實事之人、而云虛言、近非實也。(太史公、漢世實事を書するの人、而して虛言と云へば、實に非ざるに近きなり。)(感虛篇)

 〇太史公、漢之通人也。(太史公、漢の通人なり。)(案書篇)

 〇若典官文書、若太史公及劉子政之徒、有主領書記之職、則有博覽通逹之名矣。(若しくは文書を典官すること、太史公及び劉子政の徒の若く、書記を主領するの職有れば、則ち博覽通逹の名有らん。)(定賢篇)

 王充は司馬遷を「通人」と評價する。否、先の「上自黄帝、下至秦漢」等という語を見ると、むしろ元々王充の中で「司馬遷=通人」という想定があり、そこから通人像が敷衍されたと述べても良いかも知れない。戸川氏の言を借りれば、「歷史的客觀的眞實を把握しうる」通人は、「心知ノ明白ナル最高の人格を具備」し、「諸經書と傳書の詁訓によって道術を修得し、さらに古今百家の知識に通達し」ているとされる。元来かなり重く高い評價である。

 しかし、「文の要素」が介在する評價軸の中では、司馬遷は以下のように論じられる。

 〇或抽列古今、紀著行事、若司馬子長・劉子政之徒、累積篇第、文以萬數、其過子雲・子高遠矣。然而因成紀前、無胸中之造。(古今を抽列し、行事を紀著する或り、司馬子長・劉子政の徒の若きは、篇第を累積し、文は萬を以て數へ、其の子雲・子高を過ぐること遠し。然り而るに成に因りて前を紀し、胸中の造無し。)(超奇篇)

 〇漢作書者多、司馬子長、楊子雲、河漢也、其餘涇渭也。然而子長少臆中之説、子雲無世俗之論。(漢の書を作る者多く、司馬子長、楊子雲、河漢なり、其の餘涇渭なり。然り而して子長臆中の説少なく、子雲世俗の論無し。)(案書篇)

 ここで王充は、「抽列古今、紀著行事」「累積篇第、文以萬數、其過子雲子高遠矣。」と、「通人」評價と同じ趣旨の言葉で賞贊するが、續けて「因成紀前、無胸中之造。」等と批判する。超奇篇では「通人」の上に、「鴻儒」なる存在が新たに定義されていることに注意しておきたい

 周氏はこの段について論じており、「王充による司馬遷の『史記』に独自の見解がないという批判は、王充の『史記』理解の乏しさによる」と指摘している。實際、現代的な視點から考えれば、この批判が妥當なものであるとは言えないだろう。

 しかし、この「胸中之造」という語の解釋にはやや問題があるように思われる。この語の含蓄について、二つの方向から指摘を行いたい。

 まず、「胸中之造」という語から、王充の文學理論として著名な「五文」の論に用いられる「胸中之思」という語が想起される點を指摘する。

 〇五經六藝爲文、諸子傳書爲文、造論著説爲文、上書奏記爲文、文德之操爲文。立五文在世。皆當賢也。造論著説之文、尤宜勞焉。何則、發胸中之思、論世俗之事、非徒諷古經、續故文也。論發胸臆、文成手中、非説經藝之人所能爲也。(五經六藝を文と爲し、諸子傳書を文と爲し、造論著説を文と爲し、上書奏記を文と爲し、文德の操たるを文と爲す。五文を立てて世に在るは、皆賢に當たるなり。造論著説の文、尤も宜しく勞すべし。何となれば則ち、胸中の思を發し、世俗の事を論ずるは、徒だ古經を諷し、故文を續くるのみに非ざるなり。論胸臆より發し、文手中に成るは、經藝を説くの人の能く爲す所に非ざるなり。)(佚文篇)

 五種の文のうち最も重視される「造論著説之文」の解説の中で、「胸中之思」という語が使われている。ここでは、自身の手で編まれた、世俗のことを論じる「文」が最も「宜勞」である點が彊調されている。

 元々最高評價である「通人」相當の言が與えられていた司馬遷が超奇篇で批判されるとすれば、超奇篇で加わっている「文」という評價軸を考慮する必要があるのは、言うまでも無い。とすれば、「胸中之造」という語を通して五文論との關連が現れることは、偶然ではない。

 もう一點、超奇篇の中で、「鴻儒」によって書かれた「文」が、直接的に政治の場に何か有益な結果をもたらした例が何度も引用されていることを指摘する必要があろう。王充思想の中で「文」が政治の場での有用性を彊く求められるということは、超奇篇に限ることでは無く、王充の文學理論の特徵としてつとに指摘されていることである。王充は、當世に利益をもたらすという明確なる目的を持った文章を草することを重視していた。 このあたり、もっと細かく読解していけば何か分かることがありそうだ。

 『史記』も、政治の場での利用を意識しているものであることは確かだろう。しかし、そのまま政治の場で用いることのできる一篇の文章を編んだ、という類のものでもない。

 以上を按ずるに、司馬遷評價に用いられる「無胸中之造」という語から、王充が「司馬遷には自己の主張が無かった」、または「『史記』はただ過去の事蹟を整理しただけの書である」と斷じている、と讀解することはできない。ここに於ける王充による司馬遷評價の意圖は、自身の手で世俗のことを論ずる文を書くことや、政治の場に直接的に効果を顯す文章を編むことが、司馬遷には不足していた點を述べるに過ぎない。

 實際、王充が『史記』に含まれる司馬遷の判斷を称贊する箇所や、司馬遷による考證を認める箇所は、『論衡』内に現れている。

 〇自然之化、固疑難知、外若有爲、内實自然。是以太史公、紀黄石事、疑而不能實也。(自然の化、固より疑はしく知り難し、外に爲有るが若きも、内實は自然なり。是を以て太史公、黄石の事を紀すに、疑ひて實にする能はざるなり。)(自然篇)

 〇太史公記功、故髙來禩、記錄成則著效明驗、攬載髙卓。以儀秦功美、故列其狀。由此言之、佞人亦能以權説。立功爲效、無效、未可爲佞也。」(太史公の功を記すに、故に髙く來禩し、記錄成れば則ち著效明驗、攬載すること髙卓なり。)(答佞篇)

 ここで、王充による司馬遷論を總括しておく。王充は、司馬遷は自身の手で文章を編み、世俗の事を論じ政治の場に活かすといった點については不足があったと指摘するが、古今百家の學に通じ、歷史的客觀的真實を把握する賢人であるという考えが根本にあるようだ。大久保氏がこの五篇を時代順の成立と見ていることと考え合わせれば、もともと王充にとって「通人」たる司馬遷は一つの理想的賢人像を具有していたと言えるだろう。そこには王充の司馬遷への憧憬も見えるが、その上でその不足點を批判し乘り越えようとする點に王充らしさがある。

 尤も、王充が「司馬遷に特徵的な思想があり、それが『史記』に現れている」という認識を持っていたとまでは考えにくい。そのように論じている部分は、『論衡』の中に確認できないし、やはり「少憶中之説」「無胸中之造」といった語の重さから、そのような發想は讀み取りにくい。「書漢世實事之人」という語が、王充の司馬遷評価を尤も端的に表しているであろう。

尚、『論衡』内では、「史記」という語はいわゆる「魯史記」、または一般の歷史書という意味でしか用いられない。司馬遷著の『史記』には、「太史公」「太史公書」といった呼称が用いられている。『史記』の名の定着は魏晋以降であり、両漢代において『史記』は「太史公」「太史公記」「太史公書」「太史記」などと呼称されていた。王国維「太史公行年考」(『觀堂集林』卷十一・十七葉)に詳しい。 口頭試問の時に、『隷釈』に引かれる後漢の碑文に「史記」の用例があると教えていただいた。つまり「史記」の呼称は必ずしも魏晋以降とは言えない。 大久保隆郎「王充の人材論 二」(前揭大久保本、671~731頁)も、程材篇~超奇篇の詳細な讀解を行う。 前揭戸川論文、409頁、413頁 前揭戸川論文、411頁 超奇篇「夫能説一經者爲儒生、博覽古今者爲通人、采掇傳書以上書奏記者爲文人、能精思著文連結篇章者爲鴻儒。故儒生過俗人、通人勝儒生、文人踰通人、鴻儒超文人。故夫鴻儒所謂超而又超者也。」 「司馬遷有条件接触皇家保存的古籍,又継承了父親的業績。写了《史記》巨著,雖然是一部史書,其中包含很多他的“胸中之造”。…司馬遷也按此办法,吧自己的思想貫穿在記載往事上。这就是以述爲作。而王充対此仍缺乏理解,以爲《史記》没有“胸中之造”,没有自己独到的見解。」(周論文244頁) 一例は以下の部分。「是故魯速飛書、燕將自殺、鄒陽上疏、梁孝開牢。書疏文義、奪於肝心、非徒博覽者所能造、習熟者所能爲也。夫鴻儒希有、而文人比然、將相長吏、安可不貴。豈徒用其才力、游文於牒牘哉。州郡有憂、能治章上奏、解理結煩、使州郡連事。」(超奇篇) 蒋祖怡『王充的文學理論』(中華書局、1962)「王充対文章写作的根本觀點是凡從事著述,要求有明确的目的性,要從対當世有益出發,能够做到“爲世用”。」(26頁) 『史記』留侯世家「良嘗閒從容歩游下邳圯上、有一老父、衣褐、至良所、直墮其履圯下、顧謂良曰『孺子、下取履。』良鄂然、欲毆之。爲其老、彊忍、下取履。父曰『履我。』良業爲取履、因長跪履之。父以足受、笑而去。良殊大驚、隨目之。父去里所、復還、曰『孺子可教矣。後五日平明、與我會此。』良因怪之、跪曰『諾。』五日平明、良往。父已先在、怒曰『與老人期、後、何也。』去、曰『後五日早會。』五日雞鳴、良往。父又先在、復怒曰『後、何也。』去、曰『後五日復早來。』五日、良夜未半往。有頃、父亦來、喜曰『當如是。』出一編書、曰『讀此則爲王者師矣。後十年興。十三年孺子見我濟北、穀城山下黃石即我矣。』遂去、無他言、不復見。旦日視其書、乃太公兵法也。良因異之、常習誦讀之。・・・太史公曰『學者多言無鬼神、然言有物。至如留侯所見老父予書、亦可怪矣。』」 前揭大久保論文、674頁

2-3.『史記』と『論衡』の共通性

 前節で、王充は司馬遷を批判するところもあるが基本的に「通人」としてその能力を高く評價している點、『史記』に於ける司馬遷の考證を認めている點、しかし司馬遷の思想は恐らく彊くは意識しない點を述べた。つまり、『論衡』に受け繼がれた『史記』精神という主題を考える際、まず考えるべきは兩者の思想面より、王充が司馬遷に認めていた能力、卽ち歷史考證法や史學方法論といった面であるということになる。結局、方法論の相似には、基礎となる思想の共通性が示唆されることとなるが、まずはその方法論の共通性に着目することが先決となる。これらを踏まえた上で、先に提起した問題點に基づいて考えてみたい。

 どの節も、まず『史記』と『論衡』の共通點を示し、次に『漢書』と比較する體裁を採っている。

2-3-a.經書への態度

 まず、儒家に一定の距離を置いているという共通性から、史料として經書を用いる際に似た方法論を用いることが想定される。

 大木康氏は、『史記』伯夷叔齊傳の冒頭の讀解を通して、司馬遷が六經をそのまま歷史的事實の根據とすることに疑問を持っていることと、諸子雜記に取材し歷史を記すことの宣言をここで行っていると指摘する。これは太史公自序に於ける「厥れ六經異傳を協へ、百家雜語を整齊す。」という語からも、その姿勢の一端を窺うことができるだろう。

 司馬遷によって表明されるこの姿勢は、王充にも共通する點が認められる

 〇屋漏知者在宇下、知政失者在草野、知經誤者在諸子。諸子尺書、文明實是。説章句者、終不求解扣明、師師相傳、初爲章句者、非通覽之人也。(屋漏を知る者宇下に在り、政失を知る者草野に在り、經誤を知る者諸子に在り。諸子尺書、文明らかに實是なり。章句を説く者、終に解を求めて扣明せず、師師相傳ふれば、仍ほ章句を爲す者、通覽の人に非ざるなり。)(書解篇)

 『論衡』のこの言は、思想的文脈から「經書より諸子を重視する」という解釋も可能だが、文脈上、單に「焚書によって残闕甚だしい經書の正文は、諸子の中に残っている」という意味合いを含むだろう。

 つまり、歷史的事實を求める際に、經書を輕んじるわけではないが絶對的な信頼を置かないという點、また諸子の書にも歷史的事實の根據を認めた點に、司馬遷と王充の共通性を指摘できる。

 尤も、『史記』の場合、春秋時代以前の記述については『尚書』や『春秋』に負うところが大きく、直接的に經書の史料批判を行っているとは言い難い。しかし、例えば『史記』周本紀で『尚書』『詩經』に『國語』『孟子』『呂氏春秋』『淮南子』といった史料を組み合わせることそれ自體が、六經と百家雜語を等しく史料として扱う方法論の現れと言えるだろう。

 『論衡』の場合、經書批判は様々に見られるが、ここでは儒増篇の一節を引く。

 〇儒書言「夏之方盛也、遠方圖物、貢金九牧、鑄鼎象物、而爲之備。故入山澤、不逢惡物、用辟神姦。故能叶于上下、以承天休。」夫金之性、物也。用遠方貢之爲美、鑄以爲鼎、用象百物之奇、安能入山澤、不逢惡物、辟除神姦乎。(儒書に言ふ「夏の盛んなるに方りてや、遠方物を圖し、金を九牧に貢せしめ、鼎を鑄て物に象りて、之が備を爲す。故に山澤に入れども、惡物に逢はず、用て神姦を辟く。故に能く上下に叶ひ、以て天休を承く。」夫れ金の性は、物なり。遠方之を貢するを用て美と爲し、鑄て以て鼎と爲し、用て百物の奇に象るも、安んぞ能く山澤に入れども、惡物に逢はず、神姦を辟除せんや。)(儒増篇)

 「儒書言」以下の引用文は、異同はあるが『左傳』宣公三年に見える。蛇足だが、同じ言が収められる『史記』楚世家に、ここで王充に批判される部分は収錄されていない。但し、王充に批判される記述が『史記』にはそのまま引用されている、といった例も多く、兩者の見解が一致しているとは言えない。單に世家記述に於いて贅言となる部分を省いた、と見た方が良い。 雑に書いてあるが、『論衡』における『史記』の利用といった問題はそれだけで論文にできるぐらい分厚いテーマになると思う。こうした例を中心にたくさん比較していけば何か分かりそうだ。本来はこういう細かい作業を丁寧に積み重ねるのが論文なのだが、こういうことができていないと感じる。

 それどころか、『論衡』には『史記』の記述をそのまま引き、その内容を事實誤認としてはっきり批判する箇所がある。うち、出典を『史記』と明示する例については周氏の論文に整理されている。また出典が『史記』であると明示しない場合でも、引用元が『史記』と推測される傳記を批判する例は、特に儒増篇、書虛篇で多く取り上げられている。かなりの數であり、それぞれへの王充の論も大部であるためここでの引用は省略するが、實際のところ『史記』に於ける事實認定と、『論衡』に於けるそれとの間には大きな隔たりがあることは否定できない。

 先に司馬遷は六經と百家雜語を同等に史料として扱っていると述べたが、司馬遷がそこで止まっているのに對し、『論衡』の批判意識はそれよりかなり激しい代物であることは指摘せねばならない。理念は似た形で提示されているが、實際の考證の際にはその程度に大きな差が見られる、と言えるだろうか。

 ここで兩著に共通して宣言される理念は、『漢書』には現われない部分である。そもそも『漢書』は前漢の事績の史書であり、その記載の史實が直接的に經書と抵触する可能性は皆無であるからこの觀點での相違點となると論じにくいところはある。思想的文脈が彊いところであり史學方法論とは言い難いが、ここでは『漢書』司馬遷傳にその『史記』の方針がはっきり批判されている例を擧げる。

 〇又其是非頗繆於聖人、論大道則先黃老而後六經、序遊俠則退處士而進姦雄、述貨殖則崇勢利而羞賤貧、此其所蔽也。(又た其の是非頗る聖人に繆り、大道を論ずれば則ち黃老を先にし六經を後にし、遊俠を序すれば則ち處士を退け姦雄を進め、貨殖を述ぶれば則ち勢利を崇び賤貧を羞づ、此れ其の蔽ふ所なり。)(『漢書』司馬遷傳)

 班固が儒教的價値觀に基づいて『史記』貨殖列傳を改める點は、重澤氏の「歷史家たる自己が特に有利に活用し得べき歷史事實檢討の武器を棄てて經學的歷史に降伏し、之を基礎として自己の歷史觀世界觀を構成した」という指摘に從えば、經學への傾斜による歷史事實考證の輕視を表していると言える。

 尤も、近年の評價では、班固の實錄精神を高く認める論も多い。特に汪春泓氏は、「疾虛妄」の精神が王充と班固の間で共通している、とする説を立てており、ここで言及しておく必要があろう。汪氏は、『漢書』五行志などに見える班固の陰陽災異の説への態度は、あくまでただ「利用」するものであり、史家としての本心は無爲なる天を信じていたと述べ、その點で王充と共通性があるとする。但し私見では、班固が陰陽災異を信じていなかったという結論が正しいものであるとしても、その一點で王充と彊い共通性を認めて良いのか、疑問は残ると考える。また福井重雅氏のように、班固が讖緯説の信徒であったと主張する論者もおり、實錄精神の彊さも定かでは無い。この點には更なる議論が必要であろう。 このあたりは特に枠組み先行の感が強い。讖緯説≒非合理的≒儒教・経学的価値観≠史学、みたいな。ここでいう儒教・史学とは何か、といったところから、『論衡』の本文に当たって丁寧に跡付けていく必要があった。

 この論の是非はここでは論じ盡せないが、ここで經學との距離感、並びにそれに基づく理念と方法論を問題とする限り、『史記』と『論衡』に彊く共通する部分が見受けられ、それが『漢書』とは大きく乖離するものであることは確かめられる。しかし實際の考證の場では、『論衡』に突出する激しさが見られるし、近年は『漢書』の實錄精神を認める論も多い。つまり理念の上では『漢書』に對して『史記』『論衡』の共通性が高いが、實際の考證の場ではその共通性は彊く認められないと言えるだろう。

『史記』伯夷叔齊傳の「夫學者載籍極博、猶考信於六蓺。」より「其文辭不少概見、何哉。」に至る部分。 大木康『『史記』と『漢書』―中国文化のバロメーター』(127~142頁、岩波書店2008) 原文「厥協六經異傳、整齊百家雜語。」 尚、王充による古典籍・經典批判については、周桂鈿「書多失實」(『秦漢思想硏究Ⅲ 虛實之辨』187~210頁、福建教育出版社2015)、大久保隆郞「王充の衆書(古典籍)の批判について(一)~(四)」(前揭大久保本、163~378頁)に、整理・分析される。 劉盼遂、「初」は「仍」の形誤とみなす。 王充は書解篇で、焚書の際に經書は燒かれたが諸子の書は燒かれなかったという見解を展開している。書解篇「秦雖無道、不燔諸子。諸子尺書、文篇具在、可觀讀以正説、可采掇以示後人。」 『春秋左氏傳』宣公三年 對曰「在徳不在鼎。昔夏之方有徳也、遠方圖物、貢金九牧、鑄鼎象物、百物而爲之備、使民知神姦。故民入川澤、山林、不逢不若、螭魅罔兩、莫能逢之、用能協於上下、以承天休。…」 『史記』楚世家・荘王八年 楚王問鼎小大輕重、對曰「在徳不在鼎。」莊王曰「子無阻九鼎。楚國折鉤之喙、足以爲九鼎。」王孫滿曰「嗚呼、君王其忘之乎。昔虞夏之盛、遠方皆至、貢金九牧、鑄鼎象物、百物而爲之備、使民知神姦。…」 前揭周論文、239~243頁 前揭重澤論文、24頁 許殿才「《漢書》的実録精神與正宗思想」(陳其泰・張愛芳編『『漢書』硏究』159~169頁、中国大百科全書出版社2009) 汪春泓「論班固與王充“疾虚妄”精神共通性」(『中国典籍與文化論叢 三』103~112頁、中華書局) 福井重雅「班固の思想 初探」(『村山吉廣教授古希記念 中国古典學論集』227~244頁、汲古書院2000)

2-3-b.事實重視の姿勢と卽物的考察

 次に、兩著に於いて、史實を求める際に重視する根據や證據に見出せる共通性を考察する。無論兩著とも、先人が残してきた記錄をもとに史實の認定を進めていることは確かだろうが、それは『漢書』とて同じであろう。兩著にのみ特徵的な部分を探すとき、金谷治氏による指摘が示唆深い。

 金谷氏は、王充は「『事について考察する」ことを力説し、自ら實踐」し、「その考察はおおむね身近な經驗に基づく卽物的なものであった」と述べ、この點が「司馬遷が黄帝の遺跡をめぐって確かめたような實證的事實主義に通ずるものがある」こと、そして「王充においては疑古の面でさらに徹底した批判精神が廣汎に展開されている」ことを指摘する

 このうち、「王充においては疑古の面でさらに徹底した批判精神が廣汎に展開されている」という指摘については、先の經書批判の例に明らかであろう。ここでは、卽物的考察と指摘されている點について考えてみたい。

 『史記』は、司馬遷による考證の結果定まった史實を集積した書であり、その考證過程や方法論を『論衡』ほど詳細に論じるのは難しい。しかし、それらを明らかにせんとする硏究は多數存在する。ここでは、司馬遷の「旅行」に目を向ける。

 『史記』に見える司馬遷の旅行の記事は、佐藤武敏氏によって一覽の形に整理されている。ここで佐藤氏は、『史記』に於いて特に兵事の叙述が詳細である場合、その地形の描写に司馬遷の旅行による自分自身の見聞が活かされている、と指摘している。これらは、先に擧げた卽物的考察の例に合致するだろう。

 金谷氏の指摘にある、黄帝や許由らの故地を訪ねてその事績を確かめた例は、佐藤氏によれば實際の記述に大きな影響は與えていないとされる。しかし、古書記載の事績への考察を行うのみでなく、實際の自身の見聞を交えて考證する點に、その特徵が現れていることは言える。

 自身の見聞に基づいて、地理學的な觀點から考證を行う例は、『論衡』にも見受けられる。

 〇且投於江中、何江也。有丹徒大江、有錢唐浙江、有呉通陵江。或言投於丹徒大江、無濤、欲言投於錢唐浙江。浙江・山隂江・上虞江、皆有濤。三江有濤、豈分橐中之體、散置三江中乎。(且つ江中に投ずとは、何れの江ぞや。丹徒の大江有り、錢唐の浙江有り、呉の通陵江有り。或いは丹徒の大江に投ずと言へば、濤無ければ、錢唐浙江に投ずと言はんと欲す。浙江・山隂江・上虞江、皆濤有り。三江に濤有れば、豈に橐中の體を分け、散じて三江の中に置くるか。)(書虛篇)

 福島正氏は、この段の記述について、会稽人である王充による細かい地理的考證が現れていると分析する。續けて「王充が行った考證は、そのほとんどが經驗から出發しているのかも知れない」と述べ、「親しく經驗したことを蓄積し、書物や人傳てで新たに仕入れた知識を逐一その經驗と照合する。そして經驗則に背くものに出くわすごとに、可能なかぎりの方法を驅使してそれが虛偽であることを證明しようと努力する」ことを指摘する。

 この二つの例は、自身の目で「實際に見た」ものを重視する兩者の史學的方法論の共通性が、彊く現れている例と言えるだろう。つまり兩者とも、實際の見聞や經驗というものに重きを置いて、經驗主義的視點、卽物的發想による考證を行っている。 このあたりもかなり枠組み先行になっている。

 『漢書』にこの種類の考證は見られるのだろうか。例えば『漢書』地理志は以前から高く評價されており、その歷史地理學への貢献は多大であったとされている。先の兩者の地理的考證と『漢書』のそれを比較する際、まず『漢書』地理志での班固の言を見るのが良いだろう。班固は以下のように述べる。

 〇先王之迹既遠、地名又數改易。是以采獲舊聞、考迹詩・書、推表山川、以綴禹貢・周官・春秋、下及戰國秦漢焉。(先王の迹既に遠し、地名又た數改易す。是を以て舊聞を采獲し、詩・書を考迹し、推して山川を表し、以て禹貢・周官・春秋を綴り、下戰國秦漢に及ぶ。)(『漢書』地理志)

 この班固の言に從えば、自身の見聞や實地調査による考證という面はあまり現われてこない。『漢書』地理志は、過去の記錄や書籍、卽ち文字史料を編纂し成立したという側面が彊いのではないだろうか。そしてこの方向性は、『漢書』全体に共通するものと言えるだろう。『漢書』叙傳の言も、やはり前代までに蓄積された記錄の整理という方向が彊調されている。

 〇太初以後、闕而不錄、故探篹前記、綴輯所聞、以述漢書、起元高祖、終于孝平王莽之誅、十有二世、二百三十年、綜其行事、旁貫五經、上下洽通、爲春秋考紀、表、志、傳、凡百篇。(太初以後、闕して錄せず、故に前記を探篹し、聞く所を綴輯し、以て漢書を述べ、高祖に起元し、孝平王莽の誅に終る、十有二世、二百三十年、其の行事を綜べ、五經を旁貫し、上下洽通し、春秋考紀、表、志、傳、凡百篇を爲る。)(『漢書』叙傳下)

 もともと、班固の史學への評價は、過去の書籍の總合整理能力や文章能力に高く認められてきた。班固の考證の中に、『史記』や『論衡』に見られる卽物的考察が彊く認められるとは言い難い。

 ここで、この節を整理しておく。史實を求める際の自身の見聞による考證、卽物的考察という點に於いて、『史記』と『論衡』の共通點が認められた。班固の實錄精神については先に述べたように議論があるが、少なくとも史學方法論に於いて卽物的考察を重視する點を見ると、『漢書』に比較して『史記』と『論衡』に彊く共通性が認められる。

金谷治「疑古の歷史」(『中国思想論集下巻 批判主義的學問觀の形成』35~125頁、平河出版社1997) 佐藤武敏「司馬遷の旅行」(『司馬遷の世界』133~177頁、汲古書院1997) 福島正「『論衡』と『史通』」(『中国思想史硏究』26号26~66頁、2003) 張孟論「《漢書・地理志》在中国史學史上的價値」(前揭陳其泰・張愛芳本、213~220頁)、史念海「班固対于歷史地理學的創建性貢献」(同、221~247頁)を参照のこと。 楊翼驤「班固的史才」 (前揭陳其泰・張愛芳本、6頁)「總之,班固的創作天才雖然不及司馬遷,而以綜合整理的能力見長,再加以高博的學養,優美的文辭與深厚的功力,所以他所著的《漢書》能與《史記》并傳并重,而他在史學史上的地位,也與司馬遷相提并論的。」

2-3-c.春秋三傳への評價

 『論衡』と『史記』の春秋三傳への評價に興味深い共通性が見られるので、倂せて確認しておく。

 〇公羊髙・榖梁寘・胡母氏皆傳春秋、各門異戸、獨左氏傳爲近得實。何以驗之。禮記造於孔子之堂、太史公漢之通人也、左氏之言、與二書合、公羊髙・糓梁寘・胡母氏不相合。(公羊髙・榖梁寘・胡母氏皆春秋を傳へしも、各門戸を異にし、獨り左氏傳のみ近く實を得ると爲す。何を以て之を驗すか。禮記孔子之堂に造られ、太史公漢の通人なり、左氏の言、二書と合うも、公羊髙・糓梁寘・胡母氏と相合はず。)(案書篇)

 これは、現代的な觀點から言えば、『史記』が『左傳』を利用して記事を組み立てているのであり、王充の認識は事實と倒錯している。しかし、ここで『左傳』と『公羊傳』を比較し、『左傳』にのみ「爲近得實」という評價を與えている點は示唆深い。以下のように論ずる段もある。

 〇春秋左氏傳「桓公十有七年冬十月朔、日有食之。不書日、官失之也。」謂官失之言、盖其實也。史官記事、若今時縣官之書矣。其年月尚大難失、日者微小易忘也。盖紀以善惡爲實、不以日月爲意。若夫公羊穀梁之傳、日月不具、輒爲意使。失平常之事、有怪異之説、徑直之文、有曲折之義、非孔子之心。(春秋左氏傳「桓公十有七年冬十月朔、日之を食する有り。日を書ざるは、官之を失ふなり。」官之を失ふと謂ふの言、盖し其の實なり。史官事を記すは、今時の縣官の書の若し。其の年月尚ほ大にして失ひ難きも、日は微小にして忘れ易きなり。盖し紀すに善惡を以て實と爲し、日月を以て意と爲さず。夫の公羊穀梁の傳の若きは、日月具へざれば、輒ち意使を爲す。夫れ平常の事に、怪異の説有り、徑直の文に、曲折の義有るは、孔子の心に非ず。)(正説篇)

 吉本氏は、『史記』に認められる『公羊傳』に對する『左傳』の優先について、實際に『史記』における春秋傳の受容状況を檢討した上で、以下のような指摘を行う。春秋學には、「其の義を斷ずる」公羊學的あり方と、「史實の傳承そのものをより重視する」傳統とが存在し、『史記』は自らを後者の系譜に屬すると位置づけている。よって『左傳』の優先は當然である、とする。

 王充が『左傳』の「官失之」という語から展開する現實的な推論は、王充の優れた史學的感覚を示していると言えるだろう。ここで王充と司馬遷と共通して現れている『左傳』重視の傾向から、「史實の傳承そのものを重視する姿勢」を讀み取ることができる。『史記』と『論衡』における客觀的事實・史實を重視する姿勢が、『左傳』重視という同じ形で表出している。

 班固は一般的に公羊學者とされるが、福井重雅氏によって班固の『左傳』への偏向が指摘されている。しかし、ここで福井氏は、班固の『左傳』への傾斜が漢堯後説と漢火徳説を唱えることと密接に關わっていたこと、その證據として擧げられる『左傳』の記事は『史記』の時代までは存在せず、後漢左傳派と圖讖の合作であること、そしてその『左傳』の記事への疑念が後漢當初からあったことを述べている。つまり、班固の『左傳』への傾斜は、當時既に真文か否か疑念のあった漢堯後説と漢火徳説に依って漢の權威を高めることに繫がっており、王充や司馬遷のそれとは少し意味合いが異なっていると言えよう。福井氏は合わせて、王充が漢堯後説や漢火德説とは全く無縁であった点も指摘している。

 三者の『左傳』重視は共通していても、その意圖は『漢書』のみ異なっていると言えよう。

劉盼遂、「失」は「夫」の形誤とみなす。 前揭吉本本、153頁 福井重雅「班固の思想 初探」(『村山吉廣教授古希記念 中国古典學論集』227~244頁、汲古書院2000)

2-3-d.余論

 以上で論じきれなかった問題について、ここで數点言及する。

 史學方法論を問題としてきたここまでの論からは少し離れるが、『史記』と『論衡』の著述精神を問題とする時、その頌漢論(宣漢論・大漢思想)を無視することはできない。

 『論衡』の頌漢論には、『史記』と『漢書』に言及する段がある。

 〇高祖以來、著書非不講論漢。司馬長卿爲封禪書、文約不具。司馬子長紀黄帝、以至孝武、揚子雲錄宣帝、以至哀平、陳平仲紀光武、班孟堅頌孝明。漢家功德、頗可觀見。今上卽命、未有褒載。論衡之人、爲此畢精、故有齊世・宣漢・恢國・驗符。(高祖以來、著書は漢を講論せざるに非ず。司馬長卿封禪書を爲れども、文約にして具はらず。司馬子長黄帝を紀し、以て孝武に至り、揚子雲宣帝を錄し、以て哀平に至り、陳平仲光武を紀し、班孟堅孝明を頌す。漢家の功德、頗る觀見すべし。今上命に卽き、未だ褒載有らず。論衡の人、此れが爲に精を畢し、故に齊世・宣漢・恢國・驗符有り。)(須頌篇)

 須頌篇のこの段は、王朝の德を顯彰する者として司馬相如、司馬遷、揚雄、陳平仲、班固、そして王充自身という系譜を明らかにするものであり、王充が『論衡』という著作を大きく位置づける重要な段である。本論文では無視できない部分であろう。

 しかし、この點については非常に複雜な問題を孕んでいる。例えば山花哉夫氏は、王充が頌漢論を唱える一連の篇(齊世・宣漢・恢國・驗符・講瑞・是應・治期・順鼓・明雩)は、そもそも『論衡』の他の部分とは別の著述意識のもとに書かれたものであり、別個の著作として考える必要性があることを指摘する。つまり、先まで論じてきた『史記』と『論衡』の關係性と、頌漢論を結び付けるのはかなりの危険が伴う。

 これは司馬遷側にも似たような事情がある。例えば川勝氏は、太史公自序に於いて司馬遷が頌漢を唱える部分に對し、「時の權力に對する忌諱とかかわって、齒ぎれの惡い遁辞の氣味がある」と指摘している

 よってここでは、司馬遷や王充の頌漢論そのものには立ち入らない。この点への考察には、漢代の頌漢論の形成を独立して扱う硏究が必要となろう 『史記』でも『論衡』でも、頌漢論をうまく説明できた先行研究はあまりないという印象がある。漢代の学者にとって、頌漢を唱えることがどういう距離感で存在したのか、他の例も合わせて考えていく必要があると思う。

 しかし、兩著の著述動機について考える際、須頌篇に示唆的な記述があるため、ここで取り上げておきたい。

 〇是故春秋爲漢制法、論衡爲漢平説。(是の故に『春秋』漢が爲に法を制し、『論衡』漢が爲に説を平らかにす。)(須頌篇)

 ここで王充は『春秋』と『論衡』を並べて扱っている。先に漢の儒者と『論衡』とを系統づける段を引用したが、最終的には『春秋』から自著である『論衡』という系統をはっきりと宣言している。經書たる『春秋』と自著を結びつけるのは非常に彊い思想であると見るべきだが、これは言うまでも無く司馬遷にも共通する發想である。

 〇太史公曰「先人有言『自周公卒五百歳而有孔子。孔子卒後至於今五百歳、有能紹明世、正易傳、繼春秋、本詩書禮樂之際。』意在斯乎。」(太史公曰はく「先人に言有り『周公卒してより五百歳にして孔子有り。孔子卒して後より今に至るまで五百歳、能く明世を紹し、易傳を正し、春秋を繼ぎ、詩書禮樂の際に本づくもの有らんや。』意斯に在るかな。」)(『史記』太史公自序)

 『春秋』の後繼を爲す著作を殘そうとする兩者の著述動機には、近似するものが感じられる。また、李陵の禍に遭い苦難の中で『史記』を執筆したと傳えられる司馬遷と、地方の一小官として不遇、不本意な人生を送った王充とは、その境遇にも似たところがある。ともに不平文學、不平哲学と称される所以である。『論衡』の著述動機の一つに、自身と同様に不遇の中でも『春秋』に擬え『史記』という大作を殘した司馬遷の存在があることは否定できないだろう。 『春秋』と自著をなぞらえる発想は、自身の境遇に対するいわゆる「発憤著書」的な発想のほかに、孔子の継承者の自負という点もあろう。

 この点班固は、司馬遷が自己の保身に失敗した点をやや批判的に捉えている。また、彼自身の境遇も名家の出身であり、最期は獄中で迎えたとはいえ『漢書』執筆時は中央で活躍していた。『史記』と『論衡』の共通性、『漢書』の相違性が現れる土臺として以上のような点を考慮に入れることもできるだろう。

 尤も、やはり『史記』への直接的な言及が無いため、『論衡』の著述動機を『史記』に求めることの確證を得ることは難しい。また、『論衡』の著述に直接的な影響を与えた人物としては、桓譚がまず舉げられるべきであろう。しかし、ここまで述べてきたように、兩著で表明される理念、具體的な考證、執筆動機や自身の境遇に於ける共通性を考えると、王充が司馬遷を強く意識していたことも確かでは無いだろうか。

山花哉夫「王充の著述意識」(『中国思想史硏究』22号、1~24頁、1999) 『史記』太史公自序「漢興以来、至明天子。獲符瑞、建封禪、改正朔、易服色。受命於穆清。澤流罔極、海外殊俗重譯款塞。請来獻見者、不可勝道。臣下百官力誦聖徳。猶不能宣盡其意。」 前揭川勝本、64頁

3.結語

 本論の内容を簡單に整理し、本論文の結語とする。

 王充は司馬遷に理想的賢人像の一つである「通人」の姿を見ており、王充にとっては憧れとも言うべき知見を備えた人物であるとしている。しかし、その上で『史記』の誤謬の指摘や司馬遷批判を行う點こそ、王充の王充たる所以である。ここに見られる王充の論から、王充が意識的に『史記』から受け繼ぐ要素があるとすれば、その考證法や史學方法論の共通性とそれを支える精神の探求にあることが示唆された。

 兩者の考證に於ける共通點としては、まず經書を絶對視せず、古典籍を廣く見て史實を求める點が擧げられる。しかしこの點に於いては、理論的に影響を受けた可能性はあるが、兩者の經書の史料批判の度合いはあまりに大きく異なっており、實際の考證の場では共通點は見出しにくい。

 次に、自身の見聞に照らした卽物的考察が見られる點が擧げられる。『漢書』と比較する時、この點については、影響關係と言っても良い共通性がある。

 また、少し引いた視点から、兩者の著述動機や境遇にも相似点があることを指摘した。總じて、『史記』が王充に與えた示唆は大きく、『論衡』の中に『史記』精神の一部分が繼承されていると言えよう。

 先に述べたように、『論衡』の中で司馬遷の直接的な影響を述べる言はなく、『史記』の精神や方法論を王充が彊く意識していたと結論づけるのはそもそも難しい。しかし、『漢書』との比較の中で考える時、その對比は俄に示唆深いものとなる。『史記』の體例や形式、儒教的精神、頌漢論といった面は、中央官僚である班固の手によって、より充實し整った體裁で『漢書』に引き繼がれた。一方、その過程で薄まったもの、捨象されたもの―史學において最も重要とも言える、史實を求める貪欲な精神―は、地方の一小官である王充によって、より激しく徹底され、雜然とした形で『論衡』に引き繼がれた。

 案ずるに、これまで『論衡』はその性命論や運命論が注目され、思想史の中で論じられることが殆どであった。しかし上のような視点から考える時、『史記』精神の受容並びに實踐という点に於いて、史學史の中でも一つの役割を果たしていると言えるのでは無いだろうか。

 思想史、史學史の兩面で示唆深い上のテーマについて、本論文では論を盡くすことができなかった。思想面にはほとんど触れていないし、桓譚、班彪といった前代の人物との關係や、杜預、劉知機ら後世への展開を視野に入れる必要もあるだろう。今後の課題としたい。 全体を通して、問い・テーマの提示→その解決のための方法の提示→方法の実践→答えの提示、という流れができているのは卒論としては良いと思う。ただ問いの立て方が今一つだし、実践ではもっと自分なりの読解を示すことにこだわりたい。先行研究も卒論の割には整理できている方だと思うが、むしろそれが仇になって、原文と取っ組み合うことを避けて先行研究から都合のいい材料を引っ張って来るだけになっている面が見受けられる。

先行硏究に、王充思想を總合的に分析しつつ、班固の頌漢論との相違點を指摘する内山俊彦「王充の歷史意識」(『中国思想史硏究』19号、1~18頁、1996)がある。 『漢書』司馬遷傳「以遷之博物洽聞、而不能以知自全、既陷極刑、幽而發憤、書亦信矣。迹其所以自傷悼、小雅巷伯之倫。夫唯大雅『既明且哲,能保其身』、難矣哉。」 先行硏究に、大久保隆郎「桓譚と王充」(『王充思想の諸相』639~731頁、汲古書院2010)など。
注釈