閑閑空間
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段玉裁と顧千里の悲しい結末

2025年5月、元記事①を改稿。

 顧廣圻(字は千里、1766-1835)は、清朝考証学を代表する文献学者の一人である。当時名声を誇っていた段玉裁(1735-1815)に激賞され、『十三経注疏校勘記』の作成などに従事し、『説文解字注』の校勘者としても名前が見えるなど、二人は知恵を出し合いながら学問に邁進した。

 しかし、顧千里と段玉裁はいくつかの学説を巡って衝突し、ついには絶交してしまうことになる。三十歳の年齢差を隔てながらも学問を通して結ばれた仲が、結局破綻してしまうというのは、なんとも悲しいものだ。

 では、この二人の論争(段顧之争)は、どのようなものだったのだろうか。二人は、経学上のさまざまな問題について議論を交わし、平行線を辿って終わったのだが、今回はそのうちの一つを見ていきたい。

同じ題材を扱った先行研究として、武秀成「段玉裁“二名不徧諱説”辨正」(『文献』2014年02期)がある。 顧千里・段玉裁については、「校勘学者の正義|学退筆談」「顧千里の生き方|学退筆談」、 汪紹楹「阮氏重刻宋本十三經注疏考」(『文史』3輯、1963)附録「段顧校讎篇」、 喬秀岩「學《撫本考異》」(『学術史読書記』、2019)、 「禮記版本雑識」(『文献学読書記』、2018)などに詳しい。

 内容は、非常にマニアックで極めて専門性の高い内容なのだが、できるだけ手取り足取り解説しながら、分かりやすく読めるように頑張った(達成できているかは分からない)。200年ぐらい前の中国の学者たち、その中でも特に「正統的」とされる学問のど真ん中にいた人たちが、どういうことを議論していたのか、その一端を知っていただければ嬉しい。

議論になった対象

 『礼記』という書物に、以下の一文が出てくる。

礼、不諱嫌名、二名不偏諱。(礼、嫌名を諱まず、二名は「偏りては/遍くは」諱まず。)

礼においては、音が近いだけの名前は避諱しない。二文字の名前は、「偏りては/遍くは」、避諱しない。

『禮記』曲禮上(阮元本)

 『礼記』とは、儒教の中で聖典として重視されてきた「経書」の一つに数えられる本。内容は雑多なものを含んでいるが、今回取り上げる「曲礼」篇は、礼のさまざまな規則をまとめたもので、上の一段はそのうち「避諱」の規則が述べられている。

 「避諱」とは、皇帝や両親など敬うべき人の本名(「諱」)の漢字を使わない(「避」ける)原則のこと。たとえば、漢代においては、「邦」という漢字があまり使われず、「国」という字に置き換えられる傾向がある。これは、漢の太祖(いわゆる建国者)の劉邦の諱の「邦」という字を避けたもの。漢代以前には「邦」の字が使われるのが一般的であり、劉邦の諱が違っていたら、現代も「邦」の字が「国」よりも幅広く使われていたかもしれない。

 さて、上段の一文に戻って、まず「不諱嫌名」とは、漢字の音が近いというだけでは避諱を行わないということ。この解釈は、『礼記』の解説書として伝統的に重んじられてきた鄭玄(後漢)の注釈による。中国における経書研究は、経書の一語一句に細かな「注釈」を積み重ねていくことで発達してきたが、鄭玄はその代表選手と言える人である。

〔鄭玄注〕「嫌名、謂音聲相近、若禹與雨、丘與區也。」

 次に「二名不偏諱」とは、避けるべき諱が二文字の名前だった場合には、「二文字の両方を同時に使わない」のが避諱であり、常に両方の字を避ける必要はない、という規則のこと。鄭玄は、孔子の母の名が「徵在」であるため、孔子は「徵」と「在」の両方を同時には使わない(片方だけなら使うことがある)、という例を出している。

鄭玄注「偏謂二名不一一諱也。孔子之母、名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在」。なお、この説は『礼記』檀弓下「二名不偏諱。夫子之母名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。」から来ているのだろう。なお、許慎『五経異義』(『礼記正義』所引)によれば、『公羊』説では「二名」を二文字の名前を持つ者とし、『左氏』説では「二名」を改名して二種の名前を持つ者という。こういう別説もあったらしい。

 以上で説明したように、「不諱嫌名」「二名不偏諱」という言葉が実際に指している規則の内実は比較的明確である。それなら、これ以上何を議論する必要があるか、という疑問が浮かぶのは当然のところだ。何を意味しているか分かるのだから、それ以上の議論は必要ない、という立場もあり得る。

 しかし、だからこそ、当時の学者たちが一体何にこだわって議論したのか、そしてそういう熱情がどこから湧いてきたのか、探ってみることも重要だろう。そこには自分と全く異文化の世界が広がっているからだ。

問題の所在

 一言で言えば、両者の議論で問題にされたのは、「二名不偏諱」の「偏」という字が、「偏」(にんべん)と「徧」(ぎょうにんべん)のどちらにするのが正しいのか、というただそれだけのこと。「偏」と「徧」の意味の違いは以下である。

 この「偏」と「徧」、どちらの字の方が先の事象を説明するのに適当か、ということが二人が議論したポイントである。

 そもそも『礼記』を始めとする「経書」が作られたのは、先秦~漢代、つまり今から2000年以上前のこと。その間、竹簡(竹に書かれた本)、石経(石に彫られた経書)、抄本(手書きで紙に書かれた本)、木版本(木版印刷で紙に印刷された本)など、さまざまな形態を経由して経書は伝えられてきた。その間で、経書の文字が入れ替わったり、取り違えられたり、脱落したりすることがある。「偏」と「徧」ぐらい字形が似ていれば、そういうことはより起こりやすいだろう。

 まず、段・顧の説を見る前に、清代での通説を確認しておくため、阮元『十三経注疏校勘記』の説をまとめておく。

 阮元の『校勘記』の作成には、段玉裁も携わっており、後に分かるがこの説も段玉裁が執筆したもののようだ。これによれば、宋代の毛居正という人の説に従って、「徧」が正しいと判断している。

顧千里説

 この『校勘記』の説に反対したのが顧千里である。顧千里の説は『撫本禮記鄭注考異』に載っており、これは嘉慶十一年(1806年)に出版されたもの。顧千里説を簡単にまとめると以下のようになる。

「今案、毛説非也。唐石本作偏、不作徧。『釋文』不為此字作音、以前後「徧」字音相例、可知此作「偏」矣。『正義』亦無作徧之意。其鄭云不一一諱者、乃以一解偏。蓋一一者、皆偏有其一者也。毛誤讀注及『正義』、造此臆説。又引舊杭本柳文以實之、不知柳自作偏。『唐律』謂之「偏犯」。『疏義』云「偏犯者、謂複名單犯。」舊杭本柳文特譌字耳。岳氏『沿革例』踵其説云「合作徧」、又云「不敢加蜀大字本興國本輕於改也」。是在宋時竟有因誼父之言而輕改經文者、其爲誤不淺。又檀弓下同此文、亦可證。」(顧千里『撫本考異』巻上・曲禮上・二名不偏諱、嘉慶十一年刊本)

 先述した通り、経書は長い時間をかけて、色々な形態を経由して伝わってきた。顧千里は、その歴史をできるだけ遡りながら、より確からしい文献に依拠してどちらの字が正しいのか検討している。

 『開成石経』は唐代に作られた、石に彫られた経書で、当時の権威あるテキストを反映している。『五経正義』も唐代の書物で、経書の注釈書の一つ。

 『経典釈文』とは、それよりも前に作られた、経書の文言の「発音」を示した書物のこと。この本は比較的きちんとした体例ができている本で、他の箇所の「徧」字では発音が示されているのに、ここでは示されていないので、「偏」だったのではないか、と推測している。

 ほか、唐代の礼制や『礼記』の他の箇所も参照し、「偏」が正しいとするのが顧千里の結論である。

 顧千里が提示している文献は、どれも正統的とされる、信頼度の高い文献で、経書の軸の研究をする上で適切な根拠が示されている。まずテキストの問題から言えば、「偏」が正しいという結論は揺らぎそうにない。

 ただ、「偏」が正しいとすると、経文の意味はどうなるのか、ということを考える必要はある。上で顧千里は「(鄭玄の言う)「一一」とは、「かたよって一つだけがある」ことを示す」と述べているが、これだけではやや分かりにくい。

 顧千里の真意は、盧文弨(1717-1795)の説を合わせて見ると分かりやすい。

「『記』曲禮云「二名不偏諱」、今人頗有作「不徧諱」者、余每以其誤輒為正之。今乃知彼亦有所本。相臺岳氏有『刊正九經三傳沿革例』中有云「二名不偏諱、偏合作徧。疏曰、不徧諱者、謂兩字作名、不一一諱之也。案、舊杭本柳文載子厚除監察御史、以祖名察躬辭奉勅、二名不遍諱、不合辭。據此作遍字、是舊禮作徧字明矣。」此皆岳氏珂所説、余以為不然。若如其説、「二名不徧諱」則必專指定一字諱、一字不必諱、始得謂之「不徧諱」。今以孔子「言徵不言在、言在不言徵」考之、則二字皆在所諱中、但偏舉其一則不諱耳。岳氏唯據柳文、何不考韓文所引固是「偏諱」明甚。安知柳文非俗本傳寫之失、抑或當時宣勅者失考之、過未足依據。偏字義圓、徧字義滯、細體會之自見。」(盧文弨『鍾山札記』卷三・二名不偏諱)

 盧文弨の説明は明快であり、顧千里が「「一一」とは、「かたよって一つだけがある」ことを示す」というのもこれと同じ意味であろう。つまり、鄭玄の注釈の「不一一諱」のうち、「一一」とは「どちらか片方に偏ること(二文字の名前ならそのどちらか片方だけをずっと避け、片方はずっと避けない)」を指しており、「不一一諱」でこれを否定している、ということになる。

 一見ややこしい理屈ではあるが、きちんと筋は通っている。先のテキスト上の根拠と合わせて考えると、ひとまず「偏」が正しい、という結論が導かれそうだ。

段玉裁説

 しかし、段玉裁はこの顧説を見て大激怒し、反論した。かなりこだわって反論していることからも、当初の校勘記自体、段玉裁の説であったと考えられる。まずは段玉裁を整理しておこう。少し省略を加えている。

「曲禮曰「不諱嫌名、二名不徧諱。」各本徧作偏。今按、以徧爲是。注曰「嫌名謂音聲相近、若禹與雨、丘與區也。(原注・略)不徧、謂二名不一一諱也。」按、一一諱者、謂人子人臣語言、於二名諱其一、又諱其一、是之謂徧、徧二者而諱之也。不徧二者而諱之、則語言閒或必用上一字、或必用下一字、有斷不能易者、用其一而已、旣用此一矣、則一夕之話斷不再出彼一字。良由孝子忠臣之心、道其一已不自安、寧有不檢而更道其一之理。非不欲徧諱、而有所妨礙於人事、故緣人情而制禮如此也。説文云「徧者、帀也。」曲禮云「歲徧。」曾子問云「告者五日而徧。」尙書曰「徧于羣神。」凡閱歷皆到曰徧。今人誦書、逐字不漏者爲一徧、是其義。然則二字而次第盡舉之、所謂徧也。何以不云「二名不皆諱」、而必云「不徧諱也」。皆者、總計也。徧者、散計也。云皆、則義未憭。故必云徧。古聖賢立言之精如此。……此經作「不徧諱」、唐石經以下作「偏諱」、乃譌字之甚者。偏徧易譌、故俗字以遍易徧。偏諱、則二名諱一之謂。不偏諱者、乃必二名皆諱之、謂其義適與經相左。今人幸有「言徵不稱在、言在不稱徵」之文、不則此禮竟泯滅不傳矣。宋毛居正『六經正誤』不能皆是、而此條獨是、云偏本作徧。引正義「不徧諱者、謂兩字作名、不一一諱之也。」又引舊杭本桺文作遍。固可訂今經疏之繆字、確不可易矣。」(段玉裁『經韵樓集』巻十一・二名不徧諱説)

 よって「徧」が正しい、とするのが段説。これを見ると、結果的に表現される内実は同じで、あくまで文字の相違だけが問題であるということが改めて理解できる。そして以下のように、段玉裁は顧千里に猛烈に反対する。

「顧秀才千里作『禮記攷異』乃云、偏是而徧非。其説曰「鄭以一解偏、不一一者、皆偏有其一者也。」如其説、僅舉一爲偏、則經當云「二名則偏諱」、何以言「二名不偏諱」也。一可以解偏、一一不可以解偏、而可以解徧。不一一不可以解不偏、而可以解不徧。云「皆偏有其一」、無論語拙、仍是「徵、在」二字皆諱其一、仍是不徧諱而非不偏諱。必改經文作「二名則偏諱」、改注作「二名不一諱」、而後可云偏是徧非、而又非「言徵不言在、言在不言徵」之旨矣。毛氏『正誤』岳珂『沿革例』亦云「若謂二字不獨諱一字、亦通。但與康成所注文意不合。可見傳寫之誤。」二君亦明知作偏之非矣。乃千里謂「毛氏誤讀正義、造此臆説、桺文舊本斷斷無有」何耶。」(段玉裁『經韵樓集』巻十一・二名不徧諱説)

 大筋は以上であるが、ここに段玉裁の重大な誤解があること気づいた方は鋭い。というのも、段氏は顧氏が「不一一=偏」とすると述べるものの、先に見たように、実際のところ顧氏は「一一=偏」とするのであって、段氏の理解では「不」の一字が抜けている。

顧氏の原文は「其鄭云不一一諱者、乃以一解偏。蓋一一者、皆偏有其一者也」、段氏の引用では「鄭以一解偏、不一一者、皆偏有其一者也」。

 顧氏は、「偏=一一」と解釈しており、よって「不偏諱=不一一諱」になるのは当然で、本来特に矛盾は存在していない。よって、段氏が②・④で「偏=不一一ならば、もとの経文が「二名則偏諱」であるべき」というのは全くの誤解である。誤解に基づいて顧説を読み取ってしまった結果、肯定と否定が入れ替わり、逆になったというわけ。

 顧説が言葉足らずで分かりにくいという事情もあるだろうが、真逆の解釈をされて批判されたのでは、顧千里としてはやりきれない。

 続けて、顧千里が挙げていたテキスト上の根拠も、段玉裁は否定しようと試みる。より専門的になるが、一応掲げておく。

「千里又云「岳氏『沿革例』踵毛氏之誤、云合作徧。又云、不敢與蜀大字本興國本輕於改也。是在宋時竟有因誼父之言而輕改經文者、其爲誤不淺。」愚按、『九經三傳沿革例』云「曲禮二名不偏諱、偏合作徧。」亦引疏「不徧諱者」云云、亦引舊杭本桺文載子厚「奉敕二名不遍諱」云「此作遍字、是舊禮作徧字明矣。然仍習旣久、不敢如蜀大字本興國本輕於改也。」『沿革例』之言如此。夫岳氏與毛氏所據疏、皆宋淳化景德時所刻單行疏文也、其可信者一也。岳氏與毛氏所見桺文奉敕作遍同、其可信者二也。毛氏以徧易偏、其可信者三也。有可信三而倦翁不敢改、識力不足也。千里謂蜀大字興國本從毛氏之説改字、是東坡所重、毛岳校經所據之北宋本乃在嘉定後也、其顚倒何如耶。千里又云「檀弓亦作偏、可證。」愚謂、不學無識之人、旣改其一有不改其二者耶。毛氏書此冣爲佳處、岳氏知其善而不能從。千里乃力辨其非、是可以校經否。又按、注「不徧謂二名不一一諱也」。文理必如是、各本奪上不字、則愈令學者惑矣。凡若此類、不必有證佐而後可改。」

 新たに出ている反論は④だが、これは段氏の誤解であり、顧千里の理解が正しいことが喬秀岩「學《撫本考異》」(『学術史読書記』、2019)によって指摘されている。また、顧氏が自説の大きな根拠の一つとした『経典釈文』については、段氏は特に言及していない。

 こうしてみると、段玉裁の反論は、誤解に基づく上に、的を外しており、説の妥当性としては顧千里に軍配が上がるとひとまずまとめられる。段玉裁の説からは、年下の学者の批判にプライドを傷つけられた人の、自己防衛的な反応を伺えるように思う。

 ここから、段玉裁と顧千里の学問・思想の違いといったテーマを探求するのも面白い。ただ、まず今回の記事で伝えたいのは、内容面にはほとんど影響のない一文字の相違、それも「にんべん」か「ぎょうにべん」かという恐ろしく細かい問題によって、親交が破壊されるほどに悩まされた、当時の学者たちの苦闘である。

 経書というものに何のこだわりも抱かない私たちからすると、この二人の議論とその結末は、相当に理解しがたいものである。でも、二人の議論に妙に心惹かれる自分がいる。浮世離れした文字の世界に囚われ、最後まで妥協しなかった二人に、どこかロマンチックなものを見出しているのかもしれない。

王念孫説

 さて、最後に、同じく清朝考証学を代表する学者の一人である王念孫(1744-1832)の説を見ておきたい。以下の議論が両者の議論を踏まえて執筆されたものなのかは不明だが、少し異なる角度から議論されている。

「偏具此物而致從事焉。畢云、偏當爲徧。念孫案、古多以偏爲徧、不煩改字。(原注)非儒篇「遠施周偏。」公孟篇「今子偏從人而説之。」皆是徧之借字、而畢皆徑改爲徧、則未達假借之旨也。益象傳「莫益之徧辭也。」孟喜曰「徧、周帀也、本或作偏」者、借字耳。而王弻遂讀爲偏頗之偏。惠氏定宇已辯之。檀弓「二名不偏諱、夫子之母名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。」偏亦徧之借字、故曲禮注云「謂二名不一一諱也」而『釋文』偏字無音、則亦誤讀爲偏頗字矣。毛居正『六經正誤』已辯之。又『大戴記』勸學篇「偏與之而無私」、魏策「偏事三晉之吏」、『漢書』禮樂志「海内偏知上德」、皆以偏爲徧。又『漢書』郊祀志「其遊以方徧諸矦」、張良傳「天下不足以徧封」、張湯傳「徧見貴人」、『史記』竝作偏。若諸子書中以偏爲徧者、則不可枚舉。漢三公山碑「興雲膚寸、偏雨四海」亦以偏爲徧。然則徧之爲偏、非傳寫之譌也。」(王念孫『讀書雜志』墨子第二・偏)

 王念孫は「偏を徧として用いる例は良くあるのだから、いちいち改めなくてよい」という。つまり、テキストとしては「偏」字(顧千里説)で伝えられてきたのだとしつつ、意味としては「徧」字(段玉裁説)で読むべき、という説になる。

 この説は、確かに両者をうまく調停している面はある。しかし、顧千里からすれば、意味上も「偏」で通じるという自説の重要な部分は認められていないということになるし、段玉裁からしても古くは「徧」字だったという自説は否定されているわけで、両者ともに納得しない説ではあるだろう。

 この王念孫の議論は、「まあまあ、結局同じだから、仲良くしなよ」と言っているようにも思える。他書からきちんと根拠が集められているし、考証学者のようなこだわりを持っていない私たちからすると、飛びつきたくなる説になっている。実際、よく入り交じるからどっちが正しいとは言えない、という説明自体は妥当なところであろう。

 ただ、王念孫の議論は、段玉裁と顧千里のような一字にこだわり抜く感覚を、更地にしているところがある。王念孫にしてみれば、経書はそれによって表される意味内容が重要で、文字がどちらか、という問題はそれほど重要ではなかった。それはそれで大事なことだが、かといって段玉裁と顧千里の議論が無に帰すというわけではない。私としては、その意味不明なこだわりにこそ、当時本当に生きていた人の姿を見るのである。

注釈