段玉裁と顧千里の悲しい結末
顧廣圻(字は千里、1766-1835)は、清朝考証学を代表する文献学者の一人である。当時名声を誇っていた段玉裁(1735-1815)に激賞され、『十三経注疏校勘記』の作成などに従事し、『説文解字注』の校勘者としても名前が見えるなど、二人は知恵を出し合いながら学問に邁進した。
しかし、顧千里と段玉裁はいくつかの学説を巡って衝突し、ついには絶交してしまうことになる。三十歳の年齢差を隔てながらも学問を通して結ばれた仲が、結局破綻してしまうというのは、なんとも悲しいものだ。
では、この二人の論争(段顧之争)は、どのようなものだったのだろうか。二人は、経学上のさまざまな問題について議論を交わし、平行線を辿って終わったのだが、今回はそのうちの一つを見ていきたい。
内容は、非常にマニアックで極めて専門性の高い内容なのだが、できるだけ手取り足取り解説しながら、分かりやすく読めるように頑張った(達成できているかは分からない)。200年ぐらい前の中国の学者たち、その中でも特に「正統的」とされる学問のど真ん中にいた人たちが、どういうことを議論していたのか、その一端を知っていただければ嬉しい。
議論になった対象
『礼記』という書物に、以下の一文が出てくる。
礼、不諱嫌名、二名不偏諱。(礼、嫌名を諱まず、二名は「偏りては/遍くは」諱まず。)
礼においては、音が近いだけの名前は避諱しない。二文字の名前は、「偏りては/遍くは」、避諱しない。
『禮記』曲禮上(阮元本)
『礼記』とは、儒教の中で聖典として重視されてきた「経書」の一つに数えられる本。内容は雑多なものを含んでいるが、今回取り上げる「曲礼」篇は、礼のさまざまな規則をまとめたもので、上の一段はそのうち「避諱」の規則が述べられている。
「避諱」とは、皇帝や両親など敬うべき人の本名(「諱」)の漢字を使わない(「避」ける)原則のこと。たとえば、漢代においては、「邦」という漢字があまり使われず、「国」という字に置き換えられる傾向がある。これは、漢の太祖(いわゆる建国者)の劉邦の諱の「邦」という字を避けたもの。漢代以前には「邦」の字が使われるのが一般的であり、劉邦の諱が違っていたら、現代も「邦」の字が「国」よりも幅広く使われていたかもしれない。
さて、上段の一文に戻って、まず「不諱嫌名」とは、漢字の音が近いというだけでは避諱を行わないということ。この解釈は、『礼記』の解説書として伝統的に重んじられてきた鄭玄(後漢)の注釈による。中国における経書研究は、経書の一語一句に細かな「注釈」を積み重ねていくことで発達してきたが、鄭玄はその代表選手と言える人である。
次に「二名不偏諱」とは、避けるべき諱が二文字の名前だった場合には、「二文字の両方を同時に使わない」のが避諱であり、常に両方の字を避ける必要はない、という規則のこと。鄭玄は、孔子の母の名が「徵在」であるため、孔子は「徵」と「在」の両方を同時には使わない(片方だけなら使うことがある)、という例を出している。
以上で説明したように、「不諱嫌名」「二名不偏諱」という言葉が実際に指している規則の内実は比較的明確である。それなら、これ以上何を議論する必要があるか、という疑問が浮かぶのは当然のところだ。何を意味しているか分かるのだから、それ以上の議論は必要ない、という立場もあり得る。
しかし、だからこそ、当時の学者たちが一体何にこだわって議論したのか、そしてそういう熱情がどこから湧いてきたのか、探ってみることも重要だろう。そこには自分と全く異文化の世界が広がっているからだ。
問題の所在
一言で言えば、両者の議論で問題にされたのは、「二名不偏諱」の「偏」という字が、「偏」(にんべん)と「徧」(ぎょうにんべん)のどちらにするのが正しいのか、というただそれだけのこと。「偏」と「徧」の意味の違いは以下である。
- 「偏」:pian1、「かたよる」、歪である、全面的でない、正確でない。
- 「徧」:bian4、「あまねく」、普遍である、全面的である。「遍」と同字。
この「偏」と「徧」、どちらの字の方が先の事象を説明するのに適当か、ということが二人が議論したポイントである。
そもそも『礼記』を始めとする「経書」が作られたのは、先秦~漢代、つまり今から2000年以上前のこと。その間、竹簡(竹に書かれた本)、石経(石に彫られた経書)、抄本(手書きで紙に書かれた本)、木版本(木版印刷で紙に印刷された本)など、さまざまな形態を経由して経書は伝えられてきた。その間で、経書の文字が入れ替わったり、取り違えられたり、脱落したりすることがある。「偏」と「徧」ぐらい字形が似ていれば、そういうことはより起こりやすいだろう。
まず、段・顧の説を見る前に、清代での通説を確認しておくため、阮元『十三経注疏校勘記』の説をまとめておく。
- 「二名不偏諱」について、各本に異同はなく、どのテキストも「偏」に作っている。
- 毛居正(宋)『六経正誤』によれば、「偏」は「徧」に作るべき。その根拠は以下。
- 意味から考えて、「二字を両方とも諱むわけではない」と言いたいのだから、「二名不徧諱(二名徧(あまね)くは諱まず)」が正しい。
- 柳宗元(唐)の文集に「二名不遍諱」の語があり、これが古くは「徧」(遍)に作っていたことを示している。
阮元の『校勘記』の作成には、段玉裁も携わっており、後に分かるがこの説も段玉裁が執筆したもののようだ。これによれば、宋代の毛居正という人の説に従って、「徧」が正しいと判断している。
顧千里説
この『校勘記』の説に反対したのが顧千里である。顧千里の説は『撫本禮記鄭注考異』に載っており、これは嘉慶十一年(1806年)に出版されたもの。顧千里説を簡単にまとめると以下のようになる。
- 『開成石経』(唐代)は「偏」に作っている。
- 『五経正義』(唐代)の説明からも「徧」の意があったとは読み取れない。
- 『経典釈文』(隋初)がこの字に発音を示していない。(他の例を見ると、「徧」ならば発音が示されるはず。)
- 鄭玄の注釈が「不一一諱」(一々は諱まず)というのは、「一」の字によって「偏」を解釈したもの。「一一」とは、「かたよって一つだけがある」ことを示す。
- 『唐律』に「偏犯」とある。柳宗元集の「遍」(毛説の根拠の一つ)は誤字。
- 『礼記』檀弓下(『礼記』の別の篇)にも「二名不偏諱。」とある。
先述した通り、経書は長い時間をかけて、色々な形態を経由して伝わってきた。顧千里は、その歴史をできるだけ遡りながら、より確からしい文献に依拠してどちらの字が正しいのか検討している。
『開成石経』は唐代に作られた、石に彫られた経書で、当時の権威あるテキストを反映している。『五経正義』も唐代の書物で、経書の注釈書の一つ。
『経典釈文』とは、それよりも前に作られた、経書の文言の「発音」を示した書物のこと。この本は比較的きちんとした体例ができている本で、他の箇所の「徧」字では発音が示されているのに、ここでは示されていないので、「偏」だったのではないか、と推測している。
ほか、唐代の礼制や『礼記』の他の箇所も参照し、「偏」が正しいとするのが顧千里の結論である。
顧千里が提示している文献は、どれも正統的とされる、信頼度の高い文献で、経書の軸の研究をする上で適切な根拠が示されている。まずテキストの問題から言えば、「偏」が正しいという結論は揺らぎそうにない。
ただ、「偏」が正しいとすると、経文の意味はどうなるのか、ということを考える必要はある。上で顧千里は「(鄭玄の言う)「一一」とは、「かたよって一つだけがある」ことを示す」と述べているが、これだけではやや分かりにくい。
顧千里の真意は、盧文弨(1717-1795)の説を合わせて見ると分かりやすい。
- 「二名不徧諱(二名徧くは諱まず)」は、「二文字の両字を諱むことはない(=一字だけを諱む)」、つまり「どちらか一字を決めてそちらだけを避諱し、もう一字は必ずしも避諱しない」ことを指す。
- 「二名不偏諱(二名偏りては諱まず)」は、「どちらか片方の字に決めてそちらだけを避諱するのではない」ことを指す。
- 孔子の母の諱「徵在」の例でいうと、孔子は「在」の字を言うときには「徵」と言わず、「徵」の字を言うときには「在」と言わなかったのだから、後者が正しい。
盧文弨の説明は明快であり、顧千里が「「一一」とは、「かたよって一つだけがある」ことを示す」というのもこれと同じ意味であろう。つまり、鄭玄の注釈の「不一一諱」のうち、「一一」とは「どちらか片方に偏ること(二文字の名前ならそのどちらか片方だけをずっと避け、片方はずっと避けない)」を指しており、「不一一諱」でこれを否定している、ということになる。
一見ややこしい理屈ではあるが、きちんと筋は通っている。先のテキスト上の根拠と合わせて考えると、ひとまず「偏」が正しい、という結論が導かれそうだ。
段玉裁説
しかし、段玉裁はこの顧説を見て大激怒し、反論した。かなりこだわって反論していることからも、当初の校勘記自体、段玉裁の説であったと考えられる。まずは段玉裁を整理しておこう。少し省略を加えている。
- 鄭玄がいう「一一諱」とは、二字の名においてそのうちの一字を諱み、また更にもう一字を諱む こと。これを「徧」という。二字の両方にわたって諱むのである。
- すると「不一一諱」とは、「どちらか一字を使った場合に、もう一字は使わない」、ということ を指している。
- 孝子・忠臣の心としては、片方の一字を使うだけでも心が安んじないのであり、「徧諱(二字両 方を諱むこと)」をしたくない訳ではないのだが、人事に妨げがあるので、このように禮を定めた。
- 「偏諱」は、「二字の名のうち、片方の字だけを諱むこと」という意味。
- ということは、「不偏諱」は、「片方の字だけを諱むことがない」、つまり「二字の名を両方諱 むこと」、ということになる。
- 孔子の母の「徵在」の例を考えると、これはおかしい。
よって「徧」が正しい、とするのが段説。これを見ると、結果的に表現される内実は同じで、あくまで文字の相違だけが問題であるということが改めて理解できる。そして以下のように、段玉裁は顧千里に猛烈に反対する。
- 顧氏は、「鄭玄の「不一一」は、偏って片方の一字だけを諱むの意」であるとしている。
- 「不一一」=「偏」であると鄭玄が考えていたのなら、もとの経文は「二名則偏諱」(つまり否定形ではない形)でなければならない。
- 「一」は「偏」と解してもよいが、「一一」は(二字の両方を含むから)「偏」ではなく「徧」である。
- 經文を改めて「二名則偏諱」とし、注を改めて「二名不一諱」とすれば、「二字の名前は、諱む際にどちらか片方に偏らせる」の意味になって、「偏」と言っても良いことになるが、これは孔子の母「徵」の例と合わない。
大筋は以上であるが、ここに段玉裁の重大な誤解があること気づいた方は鋭い。というのも、段氏は顧氏が「不一一=偏」とすると述べるものの、先に見たように、実際のところ顧氏は「一一=偏」とするのであって、段氏の理解では「不」の一字が抜けている。
顧氏は、「偏=一一」と解釈しており、よって「不偏諱=不一一諱」になるのは当然で、本来特に矛盾は存在していない。よって、段氏が②・④で「偏=不一一ならば、もとの経文が「二名則偏諱」であるべき」というのは全くの誤解である。誤解に基づいて顧説を読み取ってしまった結果、肯定と否定が入れ替わり、逆になったというわけ。
顧説が言葉足らずで分かりにくいという事情もあるだろうが、真逆の解釈をされて批判されたのでは、顧千里としてはやりきれない。
続けて、顧千里が挙げていたテキスト上の根拠も、段玉裁は否定しようと試みる。より専門的になるが、一応掲げておく。
- 毛氏・岳氏の引く疏文に「徧」とあり、これは正統的な系統を引く字句であるはず。
- 毛氏・岳氏の見た柳宗元の文に「遍」と引かれている。
- 毛氏は「徧」を「偏」に改めている。
- 顧氏は、蜀大字・興國本は毛氏の説に沿って字を改めたとするが、この両本は北宋の本であるはず。一方、毛氏は南宋の人で、顧氏の説は前後が転倒している。
- 檀弓篇に「偏」とあるのは、同様に改められただけ。
新たに出ている反論は④だが、これは段氏の誤解であり、顧千里の理解が正しいことが喬秀岩「學《撫本考異》」(『学術史読書記』、2019)によって指摘されている。また、顧氏が自説の大きな根拠の一つとした『経典釈文』については、段氏は特に言及していない。
こうしてみると、段玉裁の反論は、誤解に基づく上に、的を外しており、説の妥当性としては顧千里に軍配が上がるとひとまずまとめられる。段玉裁の説からは、年下の学者の批判にプライドを傷つけられた人の、自己防衛的な反応を伺えるように思う。
ここから、段玉裁と顧千里の学問・思想の違いといったテーマを探求するのも面白い。ただ、まず今回の記事で伝えたいのは、内容面にはほとんど影響のない一文字の相違、それも「にんべん」か「ぎょうにべん」かという恐ろしく細かい問題によって、親交が破壊されるほどに悩まされた、当時の学者たちの苦闘である。
経書というものに何のこだわりも抱かない私たちからすると、この二人の議論とその結末は、相当に理解しがたいものである。でも、二人の議論に妙に心惹かれる自分がいる。浮世離れした文字の世界に囚われ、最後まで妥協しなかった二人に、どこかロマンチックなものを見出しているのかもしれない。
王念孫説
さて、最後に、同じく清朝考証学を代表する学者の一人である王念孫(1744-1832)の説を見ておきたい。以下の議論が両者の議論を踏まえて執筆されたものなのかは不明だが、少し異なる角度から議論されている。
- 古くは「偏」を「徧」と書くことが非常に多い。
- 具体例として『墨子』『周易』『漢書』『史記』などから具体例を示す。
- 『礼記』の例にも言及し、これも「偏」は「徧」であるとする。
- 「偏」を「徧」書くという事例は多く、古代はそういう習慣だったのであり、誤りとは言えず、わざわざ字を改めなくてよい。
王念孫は「偏を徧として用いる例は良くあるのだから、いちいち改めなくてよい」という。つまり、テキストとしては「偏」字(顧千里説)で伝えられてきたのだとしつつ、意味としては「徧」字(段玉裁説)で読むべき、という説になる。
この説は、確かに両者をうまく調停している面はある。しかし、顧千里からすれば、意味上も「偏」で通じるという自説の重要な部分は認められていないということになるし、段玉裁からしても古くは「徧」字だったという自説は否定されているわけで、両者ともに納得しない説ではあるだろう。
この王念孫の議論は、「まあまあ、結局同じだから、仲良くしなよ」と言っているようにも思える。他書からきちんと根拠が集められているし、考証学者のようなこだわりを持っていない私たちからすると、飛びつきたくなる説になっている。実際、よく入り交じるからどっちが正しいとは言えない、という説明自体は妥当なところであろう。
ただ、王念孫の議論は、段玉裁と顧千里のような一字にこだわり抜く感覚を、更地にしているところがある。王念孫にしてみれば、経書はそれによって表される意味内容が重要で、文字がどちらか、という問題はそれほど重要ではなかった。それはそれで大事なことだが、かといって段玉裁と顧千里の議論が無に帰すというわけではない。私としては、その意味不明なこだわりにこそ、当時本当に生きていた人の姿を見るのである。