「All eyes on Rafah」のAI画像が「バズる」こと

2024年5月末頃、「All eyes on Rafah」という文字列が入ったAI画像が各種SNSで大量に拡散された(参照:「All Eyes on Rafah」のAI画像、なぜ世界中に広まったのか - BBCニュース)。既にさまざまな人がこのことについての意見を述べているが、私も自分なりの感想を書き記しておきたい。
以下、まず「All eyes on Rafah」という文言そのものに対して思うことを書き、次に「All eyes on Rafah」というプロテストの言葉が「AI画像で拡散される」という現象に対して考えたことを書く。なお、この記事はこの画像をシェアした人を貶める目的で書いたものではないことを断っておく。
文言について
前提として、「All eyes on Rafah」(ラファから目をそむけるな・私たちはラファを見ている)や「Hands off Rafah」(ラファに手を出すな)という言葉は、積極的にパレスチナ人を殲滅したいと考える立場(=イスラエル政府の極右的立場)以外なら、ほとんどどんな人でも賛同できるものである。
ラファで起こったことは、「イスラエル政府が、避難のための安全地帯としてラファを指定し、そこに逃げるようパレスチナ市民に呼び掛けたのに、そのラファを攻撃した」ということである。これは、この単体の出来事として見ても、明らかに国際法違反だし、そもそも国際法なんて難しいものを持ち出さなくても、どう考えても道義的に間違っていると言い切れる事柄である。だから、よほど加害者寄り(イスラエル政府寄り)の考え方をする人、つまり「宗教対立だからどっちもどっちだね」「憎しみの連鎖が起きてますね」「ハマスはテロリストであり制裁が必要でイスラエル政府の攻撃は正しい」といった主張をする人でも、「All eyes on Rafah」という連帯の言葉を掲げることができる。
実際、だからこそ、それまではイスラエル政府を支持してきたアメリカ政府においても、ラファへの侵攻については反対する機運があった(結局何もしなかったが)。
また、新宿で行われたデモで「ラファに手を出すな」という標語が採用されたこともある。このデモには私も参加したが、約2000人を集め、この時期に東京で行われたデモの中では最大規模のものであったと思う。一般に、デモは示威行為という側面を持ち、たくさんの人を集めて街頭で見える形でその力を示すことに。デモに人を集めるために「できるだけ連帯の幅を広く取る」ことが重要だという判断から、「ラファに手を出すな」という言葉を採するのは一つの戦略としてはあり得ることだと思う。むろん、ラファのあまりに悲惨な現実を前にして、せめてこれだけは、という切実な希求があることも絶対に確かなことだ。
ただ、「加害者寄りの立場でも賛同できる」ということは、その文言に、加害者の正当化に繋がりかねない面があるということは指摘しなければならない。
そもそもの問題の根幹は、「イスラエルがラファを攻撃すること」ではない。イスラエルという国家が、パレスチナ人の土地であった場所に対して、「ユダヤ人国家」を作ることを目的に、外部から入植し、土地を奪い、資源を奪い、人を殺し、壁を作ったことで成立しているということ。そして欧米諸国がこれと結託し、それを国際社会が許したこと。そこを資本主義のフロンティアに定め、金儲けのシステムに組み込んだこと。私たちの日常生活が、その富の上に成り立っていること。そして、こうした状況に対する必死の抵抗には「テロリスト」の烙印を押し、「正義」の名の下に虐殺を続けていること。これこそが問題にすべきことであって、こうした根本的な問いに向き合うことを避けていては、今後も同じことが繰り返されてゆくだろう。
むろん、「ラファに手を出すのはさすがにおかしい」というあなたの感覚は、何も間違っていない。現実にラファへの攻撃が行われてしまった今、まず「All eyes on Rafah」と叫び、その攻撃を止めさせることは絶対に必要なことだ。
ただ、それだけだと、「ではイスラエルがラファへの攻撃を停止し、停戦に合意すれば、問題は解決なんですね」というようにも捉えられかねない。何度も言うように、それではパレスチナの解放はない。そこからもう一歩進んで、なぜこういうことが起こっているのか、なぜ止められないのかということを問う必要がある。そしてその答えには、不当な収奪と暴力の歴史と、植民地支配と虐殺から富を得てきた自分の人生がある。それを知った先に、自分なりのやり方でのパレスチナ解放運動の実践が待っているはずだ。
画像について
次に、AI画像という形で「All eyes on Rafah」が爆発的に拡散されるという現象についても考えたい。本来であれば、生成AI自体の倫理性を問うていく必要があるが(特にイスラエル政府はAI生成のフェイク画像を利用しプロパガンダを打っていたのだからなおさら)、ここではそこまでは踏み込まず、今回のこの件について自分が考えたことに絞って書いておく。
まず、既に指摘されているように、ラファで起こっている現実を伝える報道写真が山ほどあるにも拘わらず、現実には存在しないAI画像の方が拡散されるのは、歓迎すべきことではない。それは結局、現実として存在する「ラファ」から「目をそらして」いるのではないか、と指摘されても仕方がないことである。
これに対して、「現実の写真は残酷過ぎてシェアできない」「人にショックを与えるかもしれない」「子供も見るかもしれない」といった理由から、現場の写真はシェアできないが、こざっぱりしたAI画像ならシェアしやすい、という意見も見たことがある。しかし、子供にも見せられるような内容で現実を伝える現地の写真だっていくらでもあるわけで、本来はわざわざAI画像に頼る必要はないはずだ。
以上を前提にした上で、さらに大きな疑問は、そもそも「All eyes on Rafah」や「Hands off Rafah」という標語は、これまでにもデモの現場のプラカードやバッチなどさまざまな場面で用いられてきたものである。これまでに人の手で作られた「All eyes on Rafah」の文字列が拡散されてもよかったはずなのに、なぜかAI画像の「All eyes on Rafah」の方が拡散されるという奇妙な状況は何を意味するのだろうか。
私は、こうした現象の背景には、いわゆる「手作り感」に対する忌避感情、つまり文脈を捨象したがる消費主義的価値観があると思っている。こぎれいで、さっぱりしたものじゃないとダメで、ごちゃごちゃしたもの、つまり場所や人の文脈が見えるものは、なんとなく拒絶される雰囲気。再開発で個人商店が一掃され、チェーン店が立ち並ぶ駅前と、「All eyes on Rafah」というプロテストの言葉までもがAI画像に取って代わられる世界は、奇妙にリンクしている。
私は、社会運動の本質には、消費すること/消費されることへの抵抗、があると考えている。消費に抗うことは、その人の文脈・その場所の文脈を大切にすること、向き合うこと、またはそれを批判することから生まれてくる。これは一人でやる運動でも、みんなと一緒にやる運動でも、街頭でやる時も、PCに向かってやる時も、同じことだ。こうして「All eyes on Rafah」の主張までもが、文脈から切り離された画像になって初めて取り上げられるという現象を見ると、あらゆるものを「消費」する文化の流れがここまで行き着いたのか、とある種の絶望を抱いてしまう。
この現象は、これまで様々な方法でパレスチナ解放を訴え、実践し続けてきた人たちからすると、心を折られる出来事になったと思う。もちろん、これまで訴え続けた人たちがいたからこそ、「All eyes on Rafah」の文字が力を持ち、これだけ拡散されたということは間違いないし、疑うべきではない。また、何かしらの事情で自分のSNSでパレスチナ連帯の表明をすることが難しい人も、これだけ流行った「All eyes on Rafah」のAI画像なら投稿できるから、ここから一歩を踏み出すことができた人もいるはずだ。その意味で、パレスチナ連帯の運動が世界に何らかの変化をもたらしているということは確かだし、誇りを持つべきところである。
ただ、その変化や動きの行き着く先がここなのだとしたら、たぶん世界は変わらないだろうと思う。だからこそ、この現象をかき消して、通過点の一つにしてしまうために、パレスチナ解放のために闘い続けなければならない。