閑閑空間
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北沢恒彦という人

2025年8月(元記事

⚠この記事には、センシティブな内容が含まれています(自死への言及)⚠

 先日、北沢恒彦についての展示会が京都工芸せんい大学で行われていた。私は北沢のことは全く知らなかったのだが、左翼仲間が強く勧めてくれたので、一緒に観に行ってきた。

 北沢恒彦は京都市中小企業指導所の職員として1970年代から1990年代にかけて京都の商店街、小売市場、個店の商業診断調査を行い、まちのあり方を思案した人物です。その調査には「京都ベ平連」や「思想の科学」など北沢が所属した市民活動の仲間をはじめ、京都工芸繊維大学や京都精華大学などの学者、学生、写真家、デザイナーなどが参画しました。彼らは、大型店舗やスーパーに圧倒され失われつつあった京都の商いの場をそれぞれの視点で分析し、記録を行いました。

 本展覧会では美術工芸資料館に寄贈された資料を通じて、北沢恒彦らがどのように「まち」を思考し、調査を実施したのかを読み解くと共に、ポスト経済成長期の京都の姿を、彼らの調査の記録である診断報告書、巡回レポート、写真、北沢と商人との手紙から描き出します。

((建築アーカイブズをひらく Vol.2 まちの診断師 北沢恒彦-ポスト経済成長期の商店街と市民)から引用、2024.3.27閲覧)

 一言で言えば、非常に感銘を受けた展示だった。まず、この展示を見て、最初にあふれてきた感想をそのまま書き連ねていく。この数か月後に、北沢の伝記を読んで新たに知った事実もあるのだが、それについては末尾で補足することとする。

展示の内容

 展示のメインになっているのは、北沢が京都市内の商店街や商店が多い地区を調査した結果を記した「診断報告書」である。まずこの報告書自体が面白い。この調査は、市役所職員であった北沢が、行政の仕事としてやったものである。報告書には、街の観察結果(見た目・デザイン・歩きやすさ・音・人の出入りなど)、アンケート調査の結果、街頭インタビュー、店の種類や経営状況に関するていりよう的な調査、写真やイラストなど、とにかく充実しているし、そこにしっかりとした「生活」が見えるのが本当に素晴らしい。行政の調査報告書として、いわゆる「客観的」なデータ集めをしながらも、それだけにはこだわらず、街頭の意見や北沢自身の意見がずいしよに盛り込まれ、一つの訪問録として非常に読み応えのあるものになっている。

 しかも、かといって文章だけにこだわるわけではなく、店の種類(生鮮食品・乾物屋・日用品・個人経営か否か……など)を色でマッピングした地図や、人のどうせんや雰囲気を盛り込んだ地図も掲載されている。こうした地図を見れば、どこにどんな店が足りないかを判断するのは一目瞭然である。また、何気ない日常(しかしさりげなくその商店街の特徴が伝わるもの)を映した写真とイラストもふんだんに盛り込まれている。これにもいちいち北沢のコメントが付されていて、看板の出し方やスペースの活用方法(たとえば地域の老人のコミュニティスペースになっている場所の写真とか)などについて意見が細々と書かれている。

北沢の報告書の特徴

 普通、この手の行政の調査は、定量的なデータしか載っていないだろうし、場合によっては自治体と癒着した大企業の意向に沿った調査内容が出るように設問がわいきよくされている、なんてこともあるかもしれない。しかし、北沢の調査は、そういうものと全く対照的な調査報告書になっている。それは調査方法とその出力方法だけではなく、実際にその中から出てくる結論の方向性にも明確に表れている。たとえば、地元の商店街の買い物客のアンケート結果では、商店街に求めるものは「ゆっくり日用品を買い物できる場所」であるという答えが圧倒的に多く、大型商業施設を求める人はあまり多くない。北沢が調査をした時期は大型スーパーの進出期と重なっており、ライフの進出に特化して作られた調査書もある。そこには「ライフの主張の矛盾と問題点」という章もあったりする。

 調査報告書の中には、「調査」という行為に対する誠実さが感じられる北沢のコメントもある。よく強調されるのは、予断を持って調査してはならないということで、インタビュアーの選定などに際してその点に注意が払われるように工夫したこんせきが見える。実際、(おそらく北沢は敬遠したであろう)フレスコの利点を語るインタビュアーの記事も報告書に掲載されていたりする。

 もっとも驚くべきことは、この成果が、北沢が一人でやったものというわけではなくて、行政の組織の中でなされたものということにあろう。あくまで北沢は仕切り役であって、実際の調査は、各地域に適した人を任命し、大学生のアルバイトも活用しながら行われた(時給も当時からすると悪くない額だった)。これが、研究者個人のフィールドワークとか、誰かの趣味とか、そういう個人でなされたことだったなら、それなりに感心はするけれども、きようたんするには至らなかったと思う。しかし、これを行政の組織として、人を動かしながらやっていたというのが本当に信じがたい。この手法を役所に通すある種の政治力も感じるし、それを受け入れる役所の判断にも強さを感じる。

京都という街

 この数々の報告書を見て、京都という街について思いを馳せずにはいられなかった。東京に引っ越してから、たまに京都に戻ると実感するが、京都はなんだかんだいって、やっぱり住みやすい街だ。そんなに遠出しなくても、個人商店だけで一通りの買い物を済ませることができる。なんとなく寄り合って話をできる空間があちこちにある。ずっと喋っていても平気な喫茶店があり、謎の物品を並べたリサイクルショップがあり、古本屋もまだ元気だ。無理せず続いてきた場所がたくさんあり、新しくできる場所もたくさんある。この京都の良さは、東京に来てなおさら実感した。東京では、人と集まるだけでお金がかかる。みんな住んでいる場所が離れ離れすぎる。生活と労働と遊びがぶんだんされすぎている。

 でも、こういう「良さ」は、みんながなんとなく「いいなあ」と思っているだけでは、資本の波に飲み込まれて、あっという間に消え去ってしまう。資本主義の波は強烈であり、人の価値観だけではなく、街の動くシステムごと入れ替えてしまう側面がある。でも、その波に抗うための分岐点は無数にあるはずだ。「各々の持ち場にある分岐点の中で、私たちはどう抵抗するか?」ということの一つの試みとして、北沢の仕事はいまなお意義を失わないものだと思う。

 そういう「住みやすい街としての京都」は、昨今のインバウンド偏重の市政のなかで徐々に失われつつある。しかし、北山エリア再開発問題(京都府立植物園の再開発、京都府立大学共同体育館のアリーナ化など)が住民運動によって阻止されるなど、資本化への抵抗がかいま見える瞬間もある。その背景には、北沢の仕事をはじめとする、色々なものが作ってきた土壌というものも、確実にあるだろう(実際、北沢は1990年代に北山エリアの調査も行っている)。京都でしばらく生活した者としては、この街に意志と理想をもって関わってきた人たちがいたことを再確認することができ、非常にかんがい深い展示であった。

 当然のことながら、北沢の仕事ぶりにも、批判しなければいけないところもあるだろう。たとえば、展示を見る限りでは、男性中心主義や健常者中心主義への批判、みたいなものはあまり見えなかった。都市計画において、車椅子や点字ブロックの導線を組み入れることは最低限のことだと思うが、そういう話は見かけなかった。女性表象の人物の写真にルッキズム的なコメントがある箇所も少しあった。もちろん全ての資料が展示されるわけではないので、他の文献では違うことを言っているかもしれないが、このあたりはもう少し詳しく調査書を見てみたいと思った。

北沢とは何者なのか?

 さて、読者の方々は、では結局「北沢とは何者なのか?」ということが気になっているところだと思う。展示はこのことにもよく触れられていて、北沢の高校時代の文章や、北沢が関わっていた文筆グループの記事なども見ることができる。

 北沢は1934年に生まれ、1950年代前半におうき高校に通っており、当時の高校新聞に面白いことが書かれている。そもそもこの新聞自体が面白くて、自治会の中央執行委員長の選挙とその抱負(「フハイした自治会を立て直す」とか書いてある)、校長とのインタビュー(校長がざっくばらんに喋っていて面白い)や、「平和憲法を守ろう」というテーマの記事、それに紛れて修学旅行の行き先の投票があったりする。終戦の時に5~6歳という世代だから、戦争への危機感というものが色濃く反映されていて、今の大学でも到底叶わなくなったことを高校でやっていて素晴らしい。

 で、その紙面の中に、「かえんびんを高校に投げ入れて学生が逮捕された」という記事があり、そこに北沢の名前がある。当時は朝鮮戦争反対運動が盛んで、共産党が非合法下にあり、党として暴力路線を掲げていたこともある時代だった。北沢の行動もその文脈にあるものだ。高校の文集に載っている北沢が書いた小説には、時間厳守を説くシーンで、レーニンの言葉を引き合いに出す一段もあった。北沢のメモ帳にも、マルクスやレーニンの言葉がよく出てきている。簡単に言えば、北沢はいわゆる「極左活動家」で、なおかつかなりの行動派だったのだ。

 その後、北沢は日本共産党を追放された後、「ベトナムに平和を!」連合の京都の事務局長を長らく務め、左派の活動をずっと続けてきた。最初に働いていたところ(進々堂)でも労働争議をやっていた。その後市役所に入り(「犯罪者」への抑圧があまりに厳しい現代を生きていると、火炎瓶を投げ入れても市役所職員になれるのだから、いい時代だなあ、とかそんな感想を抱いたりもする)、異動先で中小企業診断士の仕事にである。文章を書いて世に出すこともずっとしていたようで、『思想と科学』の編集や、編集グループSUREの立ち上げ(退職後)も行っている。文章が多いだけではなくて、スケジュール表やファックス・手紙など、かなり細かいことも記録に残していて、こういうところにも活動家っぽさを感じる。

極左と労働

 こういう、明確な極左であり、おそらく高い理想があった北沢の歴史を知ると、北沢の役所での仕事ぶりが、また別の観点から見えてくるように感じる。はっきり理想がある中でも、自分の持ち場や生存の糧(典型的には職場)で生きていかなければならないことの矛盾に、活動家は悩まされるものだ。目標は何か?他にもっとやるべきことがあるのでは?欺瞞ではないか?資本主義の搾取に加担しているのではないか?……などなど。そして、そういう悩みの中で、一つの実践として選び取ったものが、中小企業診断士としての仕事だったのだと私は思う。そういう決断の先で、実際に北沢なりの結果を出したことに、しみじみと感じ入るものがあった。もし北沢が今の京都の街を見たなら、あまりの変化に自分の仕事が「結果を出した」とは言えない、なんて考えそうだが、それでも時計の針を遅くさせる効果はあったと思う。こういう人の生きざまを見ると、自分も頑張ろう、と月並みな事を思った。

北沢の最期

 北沢の最期は展示会では伏せられていたのだが、帰ってから調べて、北沢が1999年に65歳で自死したことを知った(北沢恒彦 - Wikipedia)。

 確かに、展示されていた年表を観た時、かすかな違和感があった。年表には、1999年の4月に「活動を終了した」とあって、その後に出先の資料を整理して実家に送るなどし、その年の11月に亡くなったと書かれていた。準備が良すぎるという違和感(病気で先が長くないと思っていて、身辺整理をしていたのか?とぼんやり思っていた)と、こうした筋金入りの活動家が「活動を終了する」ってどういうことだ?(どこでどんな方法でも「活動」はできる、って考えそうなものなのに)という違和感である。

 北沢がなぜ死んだのか、よく分からない。もう十分やりきったと思ったのかもしれない。病気だったのかもしれない。自分のやってきた活動記録を整理できるうちに死のうと思ったのかもしれない。多分、たくさんの断絶も経験してきたのだろう。思想的に相容れないと分かっている人との決裂もあれば、同志と信じて疑わなかった人との切ない結末もあったと思う。そういう関係が影響したのかもしれない。納得できないことも山ほどあっただろう。結局自分は何もできなかったと思ったのかもしれない。もちろん今の私には何も分からないが、とにかくあなたと話したかった、そんなことを思った。

後日譚――北沢の伝記を読んでみた

 後日調べていると、編集グループSURE編『北沢恒彦とは何者だったか?』という書籍があることを知り、国立国会図書館に入っていたので、ざっと内容を確認してきた。内容は、北沢の子供で小説家の黒川創が、北沢と生前親交のあった人々にインタビューをして回ったもの。運動の仲間だけではなくて、親戚や家族、教員など幅広い人が選定されていて、北沢の人生や人となりに迫る内容になっている。

 北沢は、結婚していない両親のもとで生まれ、養子に出された。高校生の時の火炎瓶の事件では、逮捕され、2ヵ月間を牢獄で過ごしていた。北沢は仲間についての情報提供を拒み、最後まで黙秘を貫いたらしい。この時には児童心理の担当で聞き取りに来た専門家が、戦後七年しか経っていないのに「政治犯」が収容されたことにショックを受け、担当を辞めたという話も載っていた。この事件でともに闘った「同志」とは微妙にすれ違いができ、さらに暴力闘争の計画を立てた日本共産党が総括もないまま非暴力路線に転換したことで、北沢は共産党からも追放される。しかしその微妙な経歴は、色々な現場ではむしろ力になったようで、何かと頼りにされることも多かったようだ。

 北沢について語る人々の言葉を聞いていると、どれも別人の話をしているような、でも根底には一つの芯があるような、そういうところが面白かった。思うようにはいかない家族との関係性も赤裸々に明かされていて、しかもそれを当事者たちが語っている。分からないことも多かったけど、北沢という人が少し身近になったように感じるいい本だった。

 少し面白かったのは、北沢の本を出していた地元の出版社の人との話。北沢は、出版社=もの書きを搾取して金を儲ける資本家と思っている節があり、その出版社の人にもそういう態度を取り続けていた。家でも「自分の本が売れていないはずがない。出版社が海賊版を作って売っているのだろう」と嘯いていたという。しかし、出版社にしてみれば、北沢の本を売っても赤字にしかならないのを、無理に出版している。そのすれ違いでよくやりあったのだという。出版が最大のメディアという時代だから、今と感覚は少し違うのだろうが、だとしても人が見える面白いエピソードだ。

 北沢の最期は、病気に苦しんでの自死だった。老老介護で父を支えながらの、身体の苦しみに耐えかねたらしい。最期、近所の人に挨拶し、別居していた妻に礼を言い、子供たちと電話をして、そのまま自室で死んだ。

 黒川は、あとがきで、北沢はそこそこ愛されていたと言えそうだと書いていたが、確かにそう感じられる本だった。ぜひ多くの方に知って欲しい人だと思い、ここで紹介した。