クィアを名乗ること
「クィア」であると名乗るとき、私は独特の緊張感を覚える。これは「パンセクシュアル」であると名乗るのとは別種の緊張感だ。「フェミニスト」や「アナキスト」を名乗るときの緊張感と似ているが、クィアと名乗るときの方が、もっと重たいものを引き受けたような気持ちになる。特にそれぞれの名乗りの間に差をつける意図はなく、あくまで私の気持ちの話だ。
私はこの「緊張感」が何に由来するものなのか、なかなか落としどころを見つけられなくて、自分で自分を「クィア」であると名乗ることを躊躇ってきた。
それでもクィアと名乗れるようになったのは、マルセラ・アルトハウス=リードという神学者が、クィアについて語る文章を読んだからだ。アルトハウス=リードは「下品な神学」を唱えた人で、聖書を性的にあけすけな解釈から読み解き、従来の聖書解釈の異性愛中心主義・モノガミー規範を破った。クリスチャンでありながらも、キリストの言動に対する批判を憚らなかったことでも知られる。
アルトハウス=リードは、「クィアである」と名乗る時、自分が緊張の中にあることを意味し、これは一人で孤独に「自分の言葉に責任を取る」ことであると言う。しかし同時に、その名乗りを引き受けることは、ある特定の闘いの中にあるコミュニティとともに主体化されることも意味すると言う。
ここでいう「コミュニティ」とは、アイデンティティ・人種などによって同質性を持ったものではなく、「見知らぬ者同士のコミュニティ」である。このコミュニティは、教会のドグマ・政治の土台にある、性の含意の複雑性を暴こうという目論見において、「強い疑いの解釈学」を用いることでつながる人々である。
これを読んで、私は自分が「クィア」と名乗る時に抱いていた躊躇いの正体を知った。つまりそれは、責任を引き受けることへの躊躇いであり、また主体化されると「後戻りができない」ことへの恐怖心であったと思う。この躊躇いには、二つの方向の意味がある。一つは「自分なんかがクィアを名乗っていいのか」という疑問、もう一つは「クィアを名乗る責任を背負いきれるだろうか」という疑問である。今日は、この二つの疑問に向き合ってみたい。
本題に入る前に、まず「クィア」という言葉を自分なりの理解で説明しておく。
「クィア」とは何か
そもそも「クィア」とは、同性愛者などに対して使われる侮蔑語・差別語であった「Queer」を、逆に当事者から名乗るようになった、という歴史のある言葉である。「Queer」という言葉で侮蔑してくる差別者に対し、「Queerで何か問題でも?」という(捨て身で胸ぐらをつかみにかかるような)問いを投げ返すことで、「Queer」を規範に対する抵抗の言葉として奪還した。その後は、ジェンダー規範を批判的に問い直し、性的少数者の連帯を志向する言葉として使われることになる。
ほかに性的少数者の連帯を表す言葉として、「LGBT」「LGBTQ+」「LGBTQIA+」といった言葉もある。人によって使い方はそれぞれだが、私の感覚では、こうした頭文字型の連帯は、「〇〇、△△、××といったアイデンティティも、私たちの仲間に入れていこう!」という方向性を連想させる。しかし、「クィア」という言葉は、「仲間を増やしていく」というアプローチではなく、そうやって「仲間と仲間じゃないもの」を線引きすること自体を徹底的に批判する態度を示すものだ。
セクシュアリティに限らず、属性によって境界線を引いて、異物化・外部化し、異物・外部とされたものを攻撃対象に仕立て上げる方法によって、被抑圧者は分断され、権力によって管理されてきた。問題は、アイデンティティに関わる抵抗運動を立ち上げる時にも、同様の機能が働いてしまうということである。権力の管理に抗うはずが、新しい排除を生んでしまうのでは、根本的に問題は解決しない。
この、われわれが「同志」として主体化し連帯する時に、不可分に生じる「排除作用」を自己批判し続けること、それが「クィア」である。その意味で、クィアは動詞的な言葉であり、まさに「クィアする」人こそが「クィア」である、ということになる。
「自分なんか」が「クィア」を名乗っていいのか?という問い
では、一つ目の問いに向き合ってみたい。
そもそも私は、比較的裕福な家で「長男」として生まれ、ぬくぬくと育ってきた。親は口数が少ない方で、不条理に怒られた記憶もない。受験勉強に適応し、進学校の中学校(男子校)に進み、高校を経て京都大学に進学した。
非異性愛者であることは早くから自覚していたけれども、学校では、友人たちの女性蔑視・同性愛蔑視的な言動に傷ついたり、反発を覚えたりしながらも、結局は見て見ぬふりしかできなかった。それは、矢面に立たず、見て見ぬふりをしても生きていける特権を持っていたことの裏返しでもある。
ある友人が、在日朝鮮人の家系で、周囲からの偏見が怖いこと、名前が朝鮮名と日本名の二つあることを私に告白してくれたことがあった。私はその時、「俺はそれ聞いて、名前が二つあってかっこいいな、とか思うよ」と、今思うとこっ恥ずかしくなることしか言えなかった。(当時その友人には「気が軽くなった」と感謝されたが、絶対に先に言うべきことがたくさんあったはずだ。)
男性ジェンダーの人に告白した時、ふられたけど、差別的な言葉を投げかけられることなどはなくて、その後も仲の良い関係を続けることができた。友人関係についても、数は多くはないが、恵まれている方だと思う。
今でも、あまり不自由なく、こうやって自分の考えを言葉にして発信できるし、ちょっと勉強すればこうしてhtmlとcssを書いて自分のサイトを作れるぐらいの能力を持っている。
だから自分は、どこかの岐路の向こう側では、冷笑的な差別主義者になっていたかもしれないと思う。今後も、自分が何かの属性に対して差別的な考えを持ってしまうかもしれないし、今も持っているのかもしれない。自分は特権をたくさん持って生きてきたし、その特権に無自覚だった時期も長いし、今でも無自覚な特権があると思う。
そんな自分がクィアを名乗っていいものなのか?というのは、クィアを名乗る時の躊躇いとしてどうしても存在してしまう。こういうことを言葉にして、色々な発信をして、(たまに)デモに行って、(たまに)運動を手伝って、ということをしながらも、自分の特権を、社会変革のためにもっと使えるはずだと常に思っているし、「あーさぼってるなあ」と自分を責める気持ちになることは多い。
もちろん、特権や権力は、絶対的に「ある」ものというより、人との関係性や社会環境の中で、勾配として相対的に生じるものである。その意味で、誰もが絶対的な弱者というわけではないし、絶対的な強者というわけでもない。誰もが相対的に特権を持っていたり、持っていなかったりする。別に、性的少数者やクィアが特権から自由というわけではない。また、社会運動への参加にしたって、そうやって「周囲から認知されやすい成果」みたいな物差しで自分を評価するのでは、マッチョな能力主義に陥るだけだ。
先に述べた「クィア」の理念を掲げる人は、すでにクィアである。その意味で、私は十分にクィアだ。それは頭では分かっているのだけど、自分なんかがクィアを名乗っていいのか?という問いは、常に自分に対する問いかけとしてあり続けるし、それは今後も同じだと思う。
自分の「クィア性」について考える
今、クィアを名乗ることへの疑念や後ろめたさを書いたけれど、一方で、私は自分こそまさしくクィアとして扱われてきたし、そしてクィアを実践する人間だ、と確信することもある。
私がクィアであると名乗るのは、一つは、今書いたような意味で、ジェンダー規範への抵抗者を実践する人として自分を定義づけるからである。ただ、それと同時に、私は侮蔑語としての「Queer」を、日本語で言えば「変態」とか「おかま」みたいなその言葉を、そのまま投げかけられてきた人間だから、という理由もある。ここでは、その自分の経験について書いてみたい。
たとえば私は、自分が男性ジェンダーの人と親しくしていた写真を、同性愛嫌悪的な態度でからかわれたことがある。嫌な経験だが、これについては自分の味方はたくさんいると思っていたから、その場ではそんなにつらくなかった。
しかし、先に「抵抗運動の中にも排除作用が生じる」と書いたように、セクマイの界隈の中でも、さらに「非規範的」とされる性的欲求のあり方があり、そういう性的欲求の持ち主であると自認する人は「その場にいるべきではない人」として排除されることがある。私はそういう属性の持ち主だ。
たとえば、ある研究者は、「LGBTを差別しない、同性婚を認めるというふうになると、やがて小児性愛やSM、スカトロも認めるということになりませんか?」という問いにこう答えている。
そういうふうにはなりません。議論が飛躍しています。LGBT、アセクシュアル、Xジェンダー、ノンバイナリー、クエスチョニングなどこれまで私が一連の記事で扱ってきた性的マイノリティは、「病気とは認められていません」(トランスジェンダーも「性同一性障害」という病気の区分に入れずに、WHOが作成する『国際疾病分類, ICD-11』(International Classification of Diseases)では「性別不合」という言葉で精神及び行動の障害から外され、精神疾患とは考えられていません)。
俗に言う「ショタコン(男児を好む)」「ロリコン(女児を好む)」「SM(相手を虐待するもしくは被虐することに性的興奮を覚える)、「スカトロ(糞尿嗜好)」などは「本人ないしは相手が傷つく可能性がある性行動が異常」という基準に当てはまり、精神疾患として捉えられています。
……ですから、LGBT+を差別しない、偏見を持たない、同性婚を認めるよう働きかけるということと、小児性愛・SM・糞尿嗜好などを認めるということは別次元の話なのです。
金城克哉, LGBT+に関するQ&A, 180(閲覧日2024/11/27)
今回は詳しくは書かないが、私はここで「精神疾患」とされる性的欲求を持つことがあり、その志向・属性を自認している。私は、その性的欲求と付き合いながらこれまで生きてきたので、こうもあっさり「別物」として切り離されると、「ああ、ここに自分の居場所はないんだな」と感じることになる。
まず、上の説明に対して簡単に疑義を呈しておくと、そもそも小児性愛・SM・スカトロに限らず、あらゆる性行動は「自分・相手を傷つける可能性」がある。自分・相手を傷つける可能性があるから別枠という扱いをするのなら、その理屈は性行動全体に向けられなければならない(「あらゆる性加害を許さない」という当然の宣言はそのことを意味している)。全体として「病気扱いされていないから大丈夫」みたいな説明の仕方も、「精神疾患」や「病気」という規範の成立に無頓着すぎるし、同性愛などが病気扱いされて抑圧されてきた歴史を他の属性に押し付けているだけとみなされても仕方がない。
また、いわゆる「規範的なセックス」を志向する人と比べて、上記の性的欲求を抱く人は「加害する可能性が高い」なんてことが言えるのか。そうやって、性加害のパターンを一部の属性に押し込める言説が流布する中で、「規範的なセックス」で生じる性暴力が認識不能にされていくのではないのか。
少し注釈を挟んでおくと、上記の性行動のうち、そもそも小児とは性的合意が成立しないと考えるべきで、小児との性行為が性加害(また小児虐待)に当たるのは当然のことである(=「行為」は性加害であり、容認されない)。しかし、小児への性愛的欲求を恒常的に持つ人が、必ずしも性加害をするとは限らない(=「属性」で加害者扱いするのは差別である)。
上記の属性(また他の非規範的とされるセクシュアリティ)の持ち主は、規範的とされるセクシュアリティの持ち主と同様に、性加害をすることもあれば、しないこともある。周囲から「加害的」という決めつけを受ける非規範的なセクシュアリティを自認しながら、性加害をしないように自分の欲求と付き合ってきた人の実践は、クィアな実践として開かれる余地があるものだと私は考える。
ちなみに自分がやってきた「自分の性的欲求との付き合い方」の中で最も大きなウェイトを占めるのは、「小説を読む/書く」ということである。私は十五年以上の間、自分と好みを同じくする人のネット小説・携帯小説を読み、また自分好みのシチュエーションを言葉にし、同じ界隈の人と共有して、どこが好きか語り合ってきた。外から見ていると、それのどこに「欲求」して「興奮」しているのかさえ、分からないかもしれない。そういう秘められた営みが自分を救ってくれた。
この自分の経験を、適切な手段で語ることができれば、クィアの語りとして開かれたものを作れると思うのだが、いい方法が思いつかなくて試行錯誤している。言語化にはまだ時間がかかると思うが、宿題として積み残しておきたい。
話を戻すと、上の研究者の論理は、「ここまでは仲間だけど、ここからは仲間じゃない」という線引きをするものになっていて、「クィア」なやり方ではない(「LGBT+に関するQ&A」という題名が象徴的だ)。こうした言説から排除される属性としての自分を発見するとき、私は自分を「クィア」であると実感する。つまり「自分こそクィアを名乗るべき」という気持ちになる。そして「クィア」な私が、どのような言説を引き受けることができるだろう、と考えることになる。
クィアを名乗る責任を引き受けること
こうしたことを考えていくと、結局のところ、「クィア」を名乗る時に問題になるのは、自分が「クィア」の名乗りに誠実でいられるかどうか、という点にある。ここで最初に紹介したアルトハウス=リードの説明が重なってくる。繰り返すと、一人で孤独に「自分の言葉に責任を取る」ことが、クィアを名乗るということなのだ。
自分の言葉に責任を取るということは、当然のことであると同時に、とても難しいことでもある。けれど、そうあろうとすることはできるはずだ。結局私が「クィア」を名乗るのは、「自分の言葉に責任を取る」ということに自然と同意できるからである。周りからどう見えるのかは知る由もないが、私は「クィア」という言葉を知る前から、こうありたいと思って生きてきた。人と相対する時、どうしたらその人に寄り添えるのかと考えながら、同時に、自分の言葉がその人を傷つける可能性を感じ、もしそうなったら自分は何をするべきだろうか、ということを自然と考えていた。アルトハウス=リードの言葉は、この私の営みがとても「クィア」なものであるということに気づかせてくれた。
最後に再び、アルトハウス=リードの言葉を参照すると、「下品な神学=クィアな神学」は、「一人称の神学」であり、これはディアスポラ的な、自己開示的な、自伝的な神学である。それはきっと、パンセクシュアルという自分の性的指向の話や、先に述べた自分の性的欲求との向き合い方、また現在の私自身の他人との関係性のあり方について、自分と向き合いながら赤裸々に書き記していく実践と重なってくるはずだ。この記事がその第一歩だ。
- 工藤万里江『クィア神学の挑戦』(新教出版社、2022)
- 藤高和輝『バトラー入門』(ちくま新書、2024)