パンセクシュアルを名乗ること
私はなぜパンセクシュアルと名乗るのか。前提として、何かのアイデンティティを名乗る理由なんて、「自分がそう思うから」の一言で良く、原則としてそれ以上の根拠は求められるべきではない。この記事の前半で、自分の過去の経験からパンセクシュアルとしての自分の姿を考えているけれども、これを「何か個別具体的な経験を示さなければ、そのアイデンティティを名乗ってはいけない」というようには読んでほしくない。私がここに自分の経験を書くのは、社会の性規範に抗う孤独な誰かの灯になればいいと思ってのことに過ぎない。
パンセクシュアルという言葉
パンセクシュアルという言葉がいつどこで作られたものなのか、私はよく知らないが、「バイセクシュアル」という言葉との関係については考えておきたい。バイセクシュアルの方がよく世に知られた言葉で、特に「LGBTのB」と言えば通りはいい。私個人としては、「バイ」という言葉に二元論的な響きを感じており(特に日本語訳に当てられた「両性愛」はその響きが強い)、「パン」(汎・全)という言葉の語感が好きでこちらを使うようになった。もっとも、これは私が文字面から受ける印象に過ぎないので、「バイセクシュアル」と名乗る人が必ずしも二元論的なとらえ方をしているわけではない。
現実問題、「パンセクシュアル」と言っても通じない場では、「バイセクシュアル」という言葉を使うこともある。また、別に「パンセクシュアル」という言葉を使ったとしても、それで自分の感覚を簡単に伝えられるわけでもない。結局、どんな言葉を使うにしても、場面・文脈・関係性といった要因で相手への伝わり方は変化するので、双方向のコミュニケーションが必要になる。「カミングアウト」はその語感から一回きりのものだと想定されがちだが、継続的なコミュニケーションの中で徐々に獲得されていくものだ。「マイノリティは常に繰り返しの説明を要求される」とはこういうことだ。
加えて、「バイセクシュアル」という言葉には、それ固有の蓄積されてきた闘いの歴史があることにも思いを馳せたい。性的少数者の運動が同性愛者主体で行われる中で、バイセクシュアルは「所詮マジョリティとして生きていける存在」として排除される傾向にあり、一般社会と運動の両面から差別を受けてきたことがある。こうした歴史を引き受ける意味で、あえて「バイセクシュアル」と名乗る人もいるだろう。
現状の自分の感覚
私はこれまで、ノンバイナリー・女性ジェンダー・男性ジェンダーのいずれの人にも恋愛的な魅力を感じた経験がある。また、今後もそうなる可能性があると思う。その意味で、パンセクシュアルという言葉はしっくりくる。ただ、生身の人間に性的欲求を抱くことはかなり稀で、また恋愛関係と親密な友人関係の境界線がかなり曖昧な私としては、パンセクシュアルに加えて、アセクシュアルというアイデンティティも合わせ持っているように思うこともある。
結局、アセクシュアルではなくパンセクシュアルを名乗る理由は、「何となくそっちの方が落ち着くから」というだけである。その理由は、たぶん私が「アセクシュアル」という言葉を厳密な意味でとらえすぎているからだと思うが、まだ考えを整理しきれていないので今回は書くのをやめておく。
さて、私がパンセクシュアルであると説明すると、私は「ノンバイナリーも女も男も好きになる人」、つまり「〇〇の性別の人を好きになる人」というように受け取られることが多い。おそらく、バイセクシュアルの人も、世間には「女も男も好きになる人」、つまり特定の性別としての「女」と「男」が好きになる人、とかいうニュアンスで受け取られていることが多いと思う。
もちろん、当事者で実際にそういう感覚の人もいるのだろうが、私の場合は、「○○の性別の人を好きになる」というその感覚自体が、もう自分の実感とはかけ離れている。私の場合は、「人に惹かれるという時に、その人のジェンダーが何であるかが条件にならない」という感覚が近い。
むろん、性自認や性的指向はその人を形作る重要な要素の一つで、その人のアイデンティティを私が尊重するのは前提だし、私がある人のことを好きだという時、それはその人のアイデンティティを含めてその人が好きだということである。ただ、その上で、その人のジェンダーが、その人を好きになるかどうかの第一の条件として機能しない、というのが私の感覚だと思う。良くも悪くも、パンセクシュアルという言葉なら、その辺を一から説明しやすいと感じている。
というわけで、私はパンセクシュアルである。
過去の自分:中学生
パンセクシュアルと名乗るようになったのはここ数年だが、過去の自分の記憶を遡ってみると、パンセクシュアルとしての自分の欠片が昔からあったと感じている。そういう思い出を少し共有してみたい。
私は中学時代をいわゆる男子校で過ごした。中学生の頃、周りから「好きなタイプは何か」みたいな話題が持ちかけられることがあったが、当時の自分は、その質問にどう答えたらよいか、よく分からなくて右往左往していた。私は「どんな人を好きになるかなんて、好きになってからじゃないと分かんないじゃん」と素朴に思っていて、だから「好きなタイプ」なんて事前に分かるわけないと考えていた(今もそう思う)。
当時の自分は、何度も繰り返されるその質問の矢を避ける返事を考える必要があって、色々考えた挙げ句、「好きになった人がタイプ」とか答えていたのを覚えている。当時は大真面目に考えた結果だったけれど、今思うと、気取りすぎた答えでちょっと恥ずかしい。
些細なエピソードだが、この時点で、自分が将来どんな人を好きになるかなんて現時点で決まっているはずがなくて、男性を好きになるかもしれないし、女性を好きになるかもしれないし(当時はノンバイナリーという概念を知らなかった)、それは好きになる人次第だろう、といった具合で考えていたことは確かだ。そう考えると、結構昔から、パンセクシュアルの自分が生きていたのだと感じる。
思い返してみれば、私は当時から、同級生の男の子に何となく「魅かれる」ことがよくあった。それが性的・恋愛的なものとどれだけ結びついていたかはよく分からないが、「別に男が好きになるかもなあ」ぐらいの感覚は自然に昔から持っていたらしい。
これだけ異性愛規範が浸透した社会のなかで、かつ男子校というホモソーシャルの強い場にいながらも、自分のこうした感情に抑圧をかけずにいられたのは、同時期に触り始めたインターネットの影響が大きいと思う。
あの頃は、二次創作の携帯小説サイトが全盛期で、熱意のある書き手たちが、自分だけの小さな箱庭を作っていた。そこには、BL小説はもちろん、逸脱的で社会常識を踏み越えているニッチな性癖の作品がたくさん詰まっていた。今思えば、携帯小説の書き手の多くは、みな自分のための物語が必要で、自分のために物語を書いていたのだと思う。そしてそういう物語は、周りから押さえつけられていた(そして自分自身で自分に制限をかけることになるかもしれなかった)私の感情を、拾い上げてくれるものだったのだと思う。
もっとも、まだこうしたことを考える道具を十分に持たなかった頃の自分の感情を、遡及して言葉にあてはめたり、断片的な出来事を繋いでみても、これでは何かが違う、ともやを掴むような感覚もある。あくまで、今振り返って考えると、こういうことだったのかもしれない、というだけではある。
可能性としてのパンセクシュアル
自分がパンセクシュアルと名乗るときに感じる居心地のよさは、もう一つある。そもそも、いつかの未来の自分が、どのように自分のことを考えるか、また誰に惹かれるか、それとも誰にも惹かれなくなるか、また人以外の何に惹かれるかというのは、私自身にも全く分からない。その中で、(私が名乗る意味での)「パンセクシュアル」という言葉は、いつか変わるかもしれない自分の未来に対して、抑圧を掛けにくいものとして機能していると感じる。この、「可能性としてのパンセクシュアル」とでも言うべき側面が、私にとってのパンセクシュアルというアイデンティティを形作っていると思う。
最初に述べたように、自分の名乗りというのは、いつでも自分で勝手に決めていい。昨日まで異性愛者だった人が、今日からは同性愛者ということがある。アイデンティティが何度も変わろうが、その人の自由でしかない。あくまで実際の自分の感情や実存が先にあって、名乗りは後からついてくるものでしかない。だから、「今の自分の名乗りが、未来の自分を抑圧する」というのはおかしな話で、いま書いていることは、考えなくてもいいこと、またはわざわざ人に言わなくてもいいことなのかもしれない。だから今から書くことは、あくまで私の感覚をより正確に言語化しようという試みに過ぎなくて、他人に押し付けたいわけではない、ということは強調しておく。
自分の感覚がどういうものか。たとえば、「現時点で、ある特定の身体の形をした人にしか好意が向かない」と言う人がいたとして、私はそういう人ではないのだけれど、まあそういう人もいるんだろうな、と理解できる。ただ、「その感覚が将来ずっと永続すると確信する」という状態が、私には分からない。今のところ、私はそうなりそうにない。
自分がマイノリティを名乗ることを躊躇ってきた一因には、「将来どんな人を好きになるかなんて分からないじゃん。そもそも誰のことも好きにならないかもしれないし」という自分の感覚は、つまるところ、「未来は誰にも分からない」という「アタリマエ」のことを表明しているに過ぎないので、これでマイノリティと言っていいのか?と考えていたこともある。
でも、これまで居心地の悪さを感じてきた瞬間もたびたびあって、この私の感覚はどうもそんなに当たり前の感覚ではないらしい、と分かってきた。また、最初の記事で書いたように、旗を掲げて、こういう自分の感覚を伝えることは、自分にとって必要なことだし、またこの世界には、多分それを必要とする誰かがいる。
私が「パンセクシュアル」と言うときの「パン」の対象は、かなり広い。そもそも語義的に言えば、「パン」は「汎」や「全」といった意味で、人間だけに限定するものでもないだろう。普通「パンセクシュアル」は対人性愛だけに限定される言葉として使われていると思うけれど、私としては意味を読み替えて、対物性愛も含めた「汎」への性的指向を示す言葉として使っていきたいとも考えている。とはいえ、よく使われている文脈も尊重する必要があるので、これは薄っすら持っている私個人の感覚として受け取って欲しい。
「可能性としてのパンセクシュアル」が取りこぼすもの
こうした居心地の良さから、自分の感覚をパンセクシュアルという名乗りによって言語化しようと考えたのだが、その過程で、一つ気をつけなければならないことがある。
確かに、先の説明は自分にとってはかなりしっくりくるが、使い方を間違えると、大いに危険な面もある。たとえば、同性愛者に対する典型的なマイクロアグレッションとして、「それは一時の気の迷いだよ」とか「成長すれば気が変わるよ」という言葉がある。また、アセクシュアルの人に対して、「きっといつかいい出会いがあって、あなたも恋に落ちるよ」とか「よくある勘違いじゃない」などと言うのも同様だ。どちらもその人のセクシュアリティを尊重しない振る舞いで、非難されるべき言葉である。
だから、「将来どんな人を好きになるかなんてわからない/誰も好きにならないかもしれない/人じゃないものを好きになるかもしれない」という私の感覚は、あくまで私が私を説明する時にしっくりくる言葉であるというだけで、人に押し付けられるものではない。別に、自分の未来の感情に確信を持っている人もいる。もちろん、確信を持っていたけど、やっぱり変わる、ということだってある。自分のことは自分にしか分からないのだから、他人はそれを尊重する以外にやることはないのだ。
そう考えると、先の自分の感覚を「アタリマエのことを表明しているに過ぎない」と考えていた自分は、人に自分の当たり前を押し付ける振る舞いをしてしまっていた、ということになる。自分の感情を、自分だけのものとして尊重し、向き合うことの意義は、こうして人との差異を発見できることにあるのかもしれない。
こういう注意点はある一方で、性的少数者のことを考えたことのない人に向けて自分のことを伝える時には、自分なりに編み出したこの説明方法は正直便利で伝わりやすいとも感じている。前回の記事で書いたように、名乗りとは結局暴力的なものである。武器の一つとしては使いながら、使い方には気を付けていくしかない。
以上、「パンセクシュアル」という言葉について現時点で書きたいことは書けたので、ここまでで一区切りとしておく。あくまで現時点で考えていることなので、また変わるかもしれないが。
むすびにかえて―「同志」という言葉
最後に。中国・台湾といった地域では、性的少数者のことを「同志」と訳す。最初は同性愛者だけを指す言葉だったが、いまは広くLGBTQ+を指す言葉として定着したらしい。私はこの「同志」という言葉がかなり好きだ。「同志」という言葉は、もともとは孫文の遺書から広まって、その後は特に共産党用語として使われてきた歴史がある。
現在、革命尚ほ未だ成功するに至らず。凡そ我同志は須く余の著す所の建国方略、建国大綱、三民主義及第一次全国代表大会の宣言に依り継続努力し、以て之が貫徹を期すべし。(孫文「遺書」)
性的少数者を指して「同志」と呼ぶことにどういう意味があるのか。これは私が勝手に願望を重ねて理解しているだけなのだけど、その後の中国の文脈ではすっかり政府御用達の用語となってしまっていた「同志」の語を、性的少数者たちが社会変革を求める運動のための言葉として奪還した、という構図でとらえられないだろうか。そしてその意味では、「同志」の語が、性的少数者に限らず抑圧される人々の言葉になっていくのが理想かもしれない。
「クィア」と同じく、こういう文脈を利用した絶妙な「名乗り」の戦略は胸を躍らせるものがある。考えてみれば、別にアルファベットの名乗りの言葉を使わなくてもよいわけで、きっと私は「同志」という名乗りも多用していくことになると思う。