閑閑空間
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アイデンティティを名乗ること

2024年12月(元記事を大きく改稿)

 「ノンバイナリー」「レズビアン」「アセクシュアル」「クィア」など、主に性自認や性的指向のアイデンティティを示す名乗りとして知られる言葉がある。私自身は「パンセクシュアル」と名乗ることが多い。ただ、名乗りはあくまで一つのラベルに過ぎない。その人がその言葉を使って自分を説明する時、そこにどういう含意が込められているか、また結局その人はどういう存在なのかということは、ラベル一つでは到底理解に達することはできない。

 私はこの場所で、私が「クィア」また「パンセクシュアル」と名乗る時に考えていることを共有したいと思う。それは、きっと私の語りを必要としている人がいると信じるからだし、また同時に、私が語ることを私自身が必要としているからでもある。ただ、その共有のためには、まず「アイデンティティを名乗るとはどういうことか」「なぜ私/私たちには名乗りが必要なのか」という前提についての自分の理解を示しておく必要があると思う。これはそのための文章である。

社会における性規範

 前提として、いま私たちが生きている社会(特に現代の日本列島で形成されている社会)は、以下のような性規範が自明のものとされている。

  1. 人間は、女/男の二種類に分けられ、それは戸籍で割り振られた性と一致する。(男女二元論)
  2. 女は男に、男は女に性的・恋愛的に魅かれ、セックスをする。(異性愛主義・性愛中心主義)
  3. 女と男は、生涯にわたって一対一の関係を築き、子供を産み育てる。(モノガミー規範)
  4. 他人から「男性」と判断される人は、そうでない人より優位な権力を持つ。(男性中心主義)

 このうち③については、昨今では子供を産み育てるハードルがますます高まっていて、現実的な意味でこうした生き方をする人は減少傾向にあるが、人々を縛る観念的なルールとしてはいまなお幅を利かせている。

 こうして設計されたシステムの中では、シス・ヘテロの男性(戸籍で男性に割り振られ、性自認が男性で、異性愛者の人)が優位な立場に置かれやすい。たとえば、①~③のシステムにたまたま順応できたとしても、④の観念から、女性差別・女性蔑視が発生し、女性や、周囲に女性とみなされる人は日々抑圧を受けることになる。それは男女の賃金差や、政治・企業の要職のジェンダーバランス、セクハラや性暴力事件の被害者が女性に偏ることなど、さまざまな指標を見れば一目瞭然である。

 次に、この一連のシステムでは端から想定されていない存在、つまりシス・ヘテロの女/男として順応しない人々(いわゆる「性的少数者」)は、そもそもシステムで想定されていない以上、制度上の明らかな差別を受けることになるし、日常生活の中で無自覚な差別行為(マイクロアグレッション)に苦しむことにもなる。

 たとえば、①から逸脱するケース。具体的には、自分の性と証明書に記載された性や周りから扱われる性のあり方が異なる人や、女/男のどちらにも帰属意識を持たない人、また女/男以外の性のあり方がしっくりくる人などが挙げられる。男女二元論はこの社会に根強く浸透しており、学校・会社・公共施設・病院など、性別で二つに分ける空間・方法は非常に多い。社会制度も男女二元論をもとに設計され、人々はいつの間にか「外見から性別を判断し、そしてその判断された性別から内面までもを判断すること」(例:外見から女性と判断し、その人は男性が好きだろうと考える)が刷り込まれ習慣になってしまう。こうした社会の中で、非シスジェンダーの人はさまざまな面で差別・抑圧に遭遇する。

 ②から逸脱するケース。たとえば、同性愛者。結婚制度は異性愛しか想定しておらず、特定のパートナーができて結婚制度を使いたくても、使えない。保険契約や家の賃貸借などでも、異性愛のカップルなら難しくないことが、同性愛者のカップルでは難しい。また、たとえば、アセクシュアルの人や、人間以外に性的・恋愛的魅かれを覚える人がいる。異性愛にせよ同性愛にせよ「人間と恋愛すること」があまりに当然のこととされていて、制度からはじかれるだけではなく、さまざまな場面でマイクロアグレッションを受ける。性的少数者にとっては、現実世界のみならず、ドラマや小説・ゲームといったフィクションの世界でさえ、必ずしも安心できる逃げ場にはならない。大抵の場合、そこも現実とは大して変わらない差別と偏見に満ちた場所だからだ。

 ③から逸脱するケース。複数人とのパートナー関係を持続させることが、道徳・倫理に反すると考える向きは非常に強い。裏金問題よりも浮気や不倫でバッシングを受ける政治家を思い起こしてもよいだろう。パートナー関係ではなくとも、複数人でシェアハウス生活をすることなどが非規範的なものとしてとらえられ、なかなか物件を借りられないということもある。加えて、セックスワークに対する蔑視も、男女一対のカップルを長年続けることが「道徳的」で、売買春は「性の不道徳」であるという観念から生まれてくる。こうした①~④の規範の背景に、「万世一系」を主張し現在では男性のみが継承する天皇制が強固に働いていることは言うまでもない。

 加えて言うと、必ずしも「性的少数者である」という自認のない人であっても、学校や会社で「女/男らしさ」を求められたり、家族に結婚・子供を求められたり、離婚や浮気をするとやたら否定的に見られたりと、日常のさまざまな場面で、このシステムに生きづらさを感じる人は多いはずだ。

 なお、念のために書いておくと、私は「①~③がシステムとして機能し人々を抑圧すること」を批判しているのであって、「①~③のような生き方を選ぶ個人」を否定しているわけではない(④は否定しなければならない)。他人に押し付けないのなら、好き勝手に生きればよいのであって、①~③の生き方が自分にとって自然というのであれば、その人生は尊重されるべきである。ただ、そのことがたまたま「自然」であったためにシステムから優遇される自身の特権性は踏まえておかなければならないだろう。

交差する差別

 さて、以上の書き方だと、性規範がこの社会の抑圧の唯一の根源であるかのように見えてしまうが、決してそうではない。性規範による差別は人々を苦しめる大きな要素の一つではあるが、マイノリティを排除するシステムはさまざまな形を取る。それによって受ける差別は、比較して「どちらが酷い」などと議論できるようなものではない。

 たとえば、戸籍と分かちがたく結びついた天皇制のもとで、国民国家としての「日本国」が成立するなかで、外国人や、外見から外国人と判断される人は社会制度やコミュニティから排除されることになる。外国人は、選挙権・就労・教育・生活などさまざまな面で差別に遭う(というより、外国人を差別することで国民国家としての「日本国」が定立する)。最近の例でも、入管法改悪・永住権取り消し法案といった制度面の差別や、在日朝鮮人・アイヌ・クルド人などへのヘイトスピーチ、うちなんちゅへの基地の押し付けなど、差別や不当な暴力が日々振るわれている。

 また、いわゆる「健常者」中心の社会設計の中で、障害を負わされた人びとは、さまざまなサービスへのアクセスが遮断され、生活に大きな制約を受ける。同じ仕事をしていても、健常者と同じ給料をもらえないことも多い。たとえば、筆者も日々利用する国会図書館の資料のデジタル化を担っているのは障害者だが、その労働の賃金が非常に安いとして批判されている。また、筆者は障害者支援の法人が経営するクッキー屋さんでよくお菓子を買うが、他の菓子屋と遜色ない味がするのに、非常に安い値段で売られている。障害者蔑視はそのまま介護職への蔑視にもつながり、障害者の生活やアクセスを保障する担い手も厳しい労働環境に置かれている。

 他にも、ルッキズム・学歴主義・能力主義などさまざまな差別がある。こうした差別と、性規範による差別は同じ構造を持つ。どれもマジョリティ(または権力を持つ人)によって設計されたシステムによって、マイノリティ(または権力のない人)が排除されるということが起こっている。このシステムは、社会が経済利益を追求し、消費主義に走るネオリベラリズムの潮流に走ってゆく中で、より強固に、巧妙に、マイノリティを排除するように作り変えられていく。

抵抗としての名乗り

 こうした社会の規範や設計は権力装置によって何重にも塗り固められていて、個人一人きりで対抗することはとても難しい。しかし、問題意識を共有する人、同じ経験のある人、その状況に心を痛めている人などとつながって、一緒に社会に変化を働きかけることで、幾分かハードルが下がる(とはいえ難しいことには変わりがなく、そのために特権を持つ人々が一緒に闘わないといけない)。また、社会の抑圧に苦しむ個人が同じ経験がある人とつながることで、自分の苦しみが多少ケアされることや、支援制度・支援団体を教えてもらえることもある。

 こうした時、一つの「名乗り」によって旗を掲げて、自らの存在を示すことは、人々の接続や連帯を可能にするという点で大きな意味を持っている。つまり「名乗り」はこの社会と闘うための武器の一つであるということである。これは、性のあり方を示すアイデンティティの言葉だけではなく、民族的アイデンティティを示す言葉などであっても、原則的には同じものとして考えることができると思う。

 つまり結局のところ、排除されている属性を名乗ることは、この不条理な社会と闘うために「強いられる」ものという側面がある。だから、理想的には、こういう名乗りの言葉が存在しなくても、誰もが同じ扱いをされる社会が到来してほしい。わざわざ言葉にして、仲間を集めて、闘わないといけない不平等な社会に欠陥があるとしか言いようがないからだ。

「名乗り」につきまとう暴力性

 根本的に「名乗り」は暴力的な行為である。「他者に勝手に名付けること」の暴力性は分かりやすいと思うが、これと同じことが自分で自分に名付ける場合にも起こるからだ。最初に述べたように、本来、名乗りのラベル一枚で他者を理解することはできないし、自分を理解することもできない。

 たとえば、分かりやすい「名乗り」を自分に与えた結果、社会でその名乗りが用いられるときの特定のイメージと結びつき、それが必ずしも自分の実感とは一致しないのに、その名乗りが自分を縛っていくことがある。トランスジェンダーが医療にアクセスする際に、「社会で一般的とされる分かりやすいトランス像」に寄せた自分史を構成させられることを思い起こしてもよいだろう。一言で自分を表現できるアイデンティティ・ワードなど存在しないのに、その枠に自分を当てはめてしまうと、何のために闘っているのか分からなくなる。でも、社会規範に抵抗するためには、避けては通れない道なのだ。

 その意味でも、私はわざわざ名乗って闘わなくても生きていける社会が理想であると考える。社会運動の現場においても、できるかぎり名乗り・アイデンティティを前提としない場づくりを追求していく必要があるだろう。他の記事で述べるが、この意味で「クィア」という言葉は力を持つと思う。「規範の解体を目指す者」という動的なアイデンティティの提示によって繋がることで、アイデンティティを不問に付す連帯が可能になるからだ。でも「クィア」だって名乗りの一種ではあり、同じ危険性から逃れられるわけではない。

まとめ

 過去の人間社会の歴史を眺めてみると、何らかの「差異」が権力構造に変換され、そこから差別が生じるという現象は、ずっと繰り返されてきた。その歴史を思うと、「名乗りによる闘争」が不要になる社会は、永遠に来ない、のもしれない。実際、ほとんどの場合、「この社会では誰も差別されていない」などと平気で言ってしまえるのなら、それは差別されている人々のことが意識に上がっていない(または意図的に知らんぷりしている)だけだ。

 確かに、理想は永遠に来ないのかもしれない。「理想に到達した」と言ってしまった瞬間、それはもう理想ではないのだから。でも、確かに理想はある。せめて、誰もが「差別に反対する」と当たり前に言える社会、差別されている人がいないか常に誰もが自省できる社会、また差別的な制度のない社会は実現可能だと信じているし、そういう社会をみんなで作っていかなければならないと思う。

 以上、私が「名乗り」について考えていることを書いた。私が「パンセクシュアル」や「クィア」などと表明する意味は伝えられたと思う。細かく言うと、自分の性的指向を強調して伝える時には「パンセクシュアル」や「バイセクシュアル」という言葉を、規範を解体する目標をより明確に示したい時や、アイデンティティを前提としない連帯を強く打ち出したい時には「クィア」や「アナキスト」という言葉を使うことが多い。