『折りたたみ北京』と「中国らしさ」?
近年、『三体』のヒットに代表されるように、中国語圏発のSF小説が人気を集めている。そこに「中国らしさ」と呼べるような何か共通の特徴があるのか、私にはよく分からない。しかし、「中国SF」というりで紹介され、読まされる時点で、これらの作品は読者それぞれの内側にある「"中国"らしさ」と重ね合わせて読まれる宿命を背負わされるところはある。の『折りたたみ北京』を読んでいて、それを実感する一段があったので、紹介してみたい。
『折りたたみ北京』は、中国語SFの英語圏への普及に尽力したケン・リュウがセレクトしたアンソロジーである『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』(早川書房、2018年)に、表題作として収録されていて、日本語で読むことができる。本作は、ヒューゴー賞(中編小説部門)を受賞するなど国際的にも評価が高い。中国語SFは女性の作家が比較的多いことでも知られているが、郝景芳もその一人とされる。
『折りたたみ北京』の世界
『折りたたみ北京』の世界の北京は、第一スペース・第二スペース・第三スペースに分かれている。一つのスペースが展開されているとき、残りの二つは「折りたたまれて」いて、活動することはできない。そして、第一の500万人が24時間を過ごし、次に第二の2500万人が18時間を、最後に第三の5000万人が8時間を過ごすという「交代」のサイクルで一周する。第一の人々は豊かで、知的で、で、清潔な暮らしを送る上流階級である。第二は学生などの中流階級、第三はごみ処理従事者とそれを支えるサービス業者が住んでいる。原則として各スペースの間を移動することはできず、「交代」の際に危険をして忍び込まなければならず、見つかると不法侵入として捕らえられる。
この三つのスペースは、明らかに現代の階層社会を象徴している。階層による知識・金銭・空間などの不平等はすぐに思い浮かぶが、実は「時間」にも差があることを明示する仕掛けが「交代」だ。時間でさえも、誰しもに平等ではなく、されるものにはわずかな時間しか与えられない。このことを「時間制で折りたたまれる」という舞台装置で表現しているのが絶妙である。
物語の主人公は、第三スペースに住むという人物。第三スペースは、第一・第二から出る廃棄物の処理を基幹産業とし、老刀もゴミ処理場で働いている。老刀は、高額な報酬で依頼され、第一・第二スペースへと忍び込むことになる。
さて、話を戻して、私が印象に残ったのが、第一スペースで交わされていた以下の会話だ。ここは、という新進気鋭の研究者が、第一スペースのごみ処理に新技術を導入し、ゴミ処理のコストを大幅に削減できるテクノロジーを発表した場面である。
「この提案には、たくさんの利点があります」呉聞が言う。「ええ、設備を見ました……自動廃棄物処理……化学溶剤を使用してすべてを溶解・分解してから、再利用可能な物質をまとめて抽出する……衛生的で、非常に経済的……どうか、ご一考頂けないでしょうか?」
(中略)老人は呉聞を見つめて、首を横にふる。「そんな単純な話ではない。もし、わたしが君の計画を認め、それが実行されれば、重大な結果が待ち受けている。君の方法には、労働者が不要だ。仕事を失うことになる数千万の人々を、どうするつもりだ?」
『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』早川書房、2018年、p.263
中国の文章を読んでいると、こうした発想に出くわすことが不思議と多い。以下、いくつか例を紹介したい。
毛沢東の言葉
1956年、の招待で、日本の中国古典学者の林秀一を団長とする「岡山県訪中学術文化視察団」が中国を訪問した。日中国交正常化よりはるかに前のこと、視察団は一ヶ月以上滞在し、学問交流を進めるための足掛かりを作ろうと試みていた。この時、視察団に急遽毛沢東との会見がセッティングされた。毛沢東は、団員全員と懇ろな握手をし、出身地とその場所の風土について質問した後、一時間ほど会見したという。いわゆる「政治家」でもない、ただの学術視察団にここまでするのは面白いところだ。
この時の毛沢東の言葉には、政治的意図はさておいて、なかなか感慨深いものが多い。たとえば日中戦争(抗日戦争)については、このように言っている。
先ほど林団長は長いこと多大のご迷惑をお掛けしたと恐縮されたが、それは恐縮に当たらぬことです。私たちの戦ったのは、日本の軍閥であり、官僚であって、皆さんたち人民は私たちの友だちなのです。……
また、国家の建設には平和ということが何としても大切です。私たちの国がここまで建設の進んだのも、朝鮮戦争の後にいささかの平和が続いているからです。ところで、お国は平和を回復されたとはいうものの、国内には至るところにアメリカの軍事基地があり、たくさんの進駐軍がおります。本当の意味での平和というものではありません。私たちのイデオロギーをお国に輸出しようとは思っておりません。お国にはお国のやり方があります。だから、あなたがたは西方のことは何の心配もなく、一路東へ向かって進撃しなさい。そして真の平和、真の独立を一日も早く回復しなさい。
『林秀一博士存稿』林秀一先生古稀記念出版会、1974、p.124
さて、話を戻して、『折りたたみ北京』を想起させるのは以下の言葉だ。
また、あなたがたのような文化の進んだ国から、私たちの国へ来られたら、私たち人民がモッコで土を運んだり、手押車でを運んでいたりするのを見て、恐らくトラック一台入れたらどうかという感慨を抱かれたでしょう。しかし、私は一国の主席として、トラック一台入れることによって、私の愛する人民が一千人失業することを、さらに恐れるのです。
『林秀一博士存稿』、1974、p.124
全く同じ発想で驚かされる。これが毛沢東の言葉として紹介されると、こうした治政の方法は共産主義・社会主義的な発想なのかと考えてしまいそうだが、それ以前にもこういう発想はある。19世紀末にイギリスを訪れた劉の例が分かりやすい。
劉錫鴻の訪英録
劉錫鴻は、字は雲生、広東省の番偶県の人。清代の光緒年間(1875年-1908年)の初め、初代駐英国大使の郭高森ともに、駐英副大使としてロンドンに着任し、『英軺日記』と『英軺私記』という滞在日記を記した。これらは、当時の中国人が西洋社会をどのように見ていたのか、またそのファーストインパクトはどのようなものであったのか、が如実に分かる貴重な資料となっている。溝口雄三『方法としての中国』(東京大学出版会、1989)の第十章「ある反「洋務」――劉錫鴻の場合」で取り上げられている。
本題に入る前に、そのインパクトの例をいくつか見ておこう。まず、劉錫鴻が公園を見た感想。
例えばハイドパークでベンチにう市民を見ると、それは人々がビルのなかに居住していて「呼吸が天と通う処が無く」気鬱から病気になるのをれて、「国主」が特にこの公園を開き「民人に間暇に散歩舒懐させ其の気を暢ばさせよう」との「育民」重視の政策によるものだ、と見る。
溝口、1989、p.278-280
次に、道路工事の人を見た感想。
道路工事人を見れば、「失業した貧民に街を乞食させず、養済院を設けてこれに居らせ、日々食事を給し、道路橋梁の工事作業に就労させる。故に人は、労をいとい安逸につけば自ら貧賤に困苦すると知り、奮発して工商を事としないものはない」とその背後に福祉・勤労政策ありと見、なおここでは特に「国が富を致すことも亦た此れに由る」と評記している。
溝口、1989、p.278-280
次に、技術の奨励政策について。
「英人製造の巧」にはその背後にパテント認可など、官の処理よろしきによって「人人に利を帰せしめるため、みなが考案をう」といった奨励政策があるとし、ある人士があみだした砲術上の新法を官が盗用していたそれを告訴した結果、国王が賠償を命ぜられた実例をあげ、「人に、一芸の技さえあれば、たとい朝廷の尊権を以てしてもそれを抑圧することはできない。だから人はどうして勉励しないでいられよう」とその施策の公平さを特記する。
溝口、1989、p.278-280
さて、本題に戻り、そんな劉錫鴻がロンドンで新聞社の印刷機を見た一段が以下である。
ロンドンタイムス社を訪ねて、日に二八万部が印刷機によって一〇人たらずで刷り上げられ、一日の売上高も洋銀四千三百余元にのぼると知ると、なぜ人力で一日一人一〇〇部ずつとして、二八〇〇人の印刷工を就労させ、彼らに均しく一元半余の日給にありつく機会を分かち与え、その扶養家族を平均八人として計二万二千余人の生活をここに託させてやらないのか、なぜわざわざ機器を用いてこの万余の口食を奪うのか、とおよそ経営者の考えも及ばぬ質問をする。
溝口、1989、p.278-280
劉錫鴻が西洋の機械文明や科学技術に驚くところは私たちにも想像がつくが、こんなことを考えるとは思いもよらない。先の道路工事人の例も同じだが、これも「労力を省ける新技術を使うよりも、民衆に仕事を与える」べきというところで、『折りたたみ北京』と発想を同じくしている。
劉錫鴻は、というより伝統的な中国の知識人はほとんど例外なく、「人をいかに治めるか」という為政の術を考え、実行することを任とした。この劉の感想の背景には、「大衆に仕事を与えなければ治安が悪化する」という劉自身の政治経験があるのだろう。
この政策は、福利厚生的な発想というよりは、治安維持や階級の固定化という側面を大きく見るべきだろう。四書五経の一つ『大学』には「小人閑居為不善」(小人して不善を為す)という言葉がある。「閑居」は人を避けて独りで過ごすことを指すが、仕事をせず暇な状態という含意もある。つまり「つまらない人は、仕事をせず一人でいると、良くない行為をする」と言っているわけで、上の発想と一脈通じるところがある。
現代中国
今も中国を訪れると、普通のバスの中に一人は警備員のような人が座っているし、地下鉄の入り口の荷物検査では過剰と言えるほどにたくさんの人が働いている。これらは表向きには監視のためだが、たぶん理由はそれだけではなくて、人々に働き口を与えるという意味も大きいのだと思う。つまり中国では、「職を与える」ということが政府の役割として強く意識される傾向にあるのではないか、という気がする。
『折りたたみ北京』の老刀は、話を聞いた当初は、「彼らの話が自分に関わりのあるものだということは、老刀にもなんとなくわかったが、いいことなのか悪いことなのかまでは分からなかった」(p.264)。その後、老刀と同郷ながら第一スペースに成り上がった老葛に出会い、この仕組みの由来を聞くことになる。
人件費が上がり続け、機械設備費が下がり続けると、人より機械を使うほうが安くなる。生産率の向上とともにGDPも上がったが、失業率も上がってしまった。どうすればいいと思う?労働者を守る政策を成立させるか?福祉政策を強化する?労働者を守ろうとすればするほど人件費は上昇し、雇用主にとって人を雇う魅力はますます失われる。
……いちばんの方法は、一定の人口の活動時間を減らし、さらに彼らを常に忙しくさせておく方法を見つけることだ。わかるか?そうだ、彼らを夜に押し込んでしまえばいい。
『折りたたみ北京』pp.266-267
目の前のことを考えるなら、国が失業者を減らすために働き口を設けるというのは、福利厚生的な救済になる面もある。その意味で、今の政府に、もっと働き口を用意せよ、と当面の要求として伝えることは必要なことだろう。
しかし同時に、根本的に労働とは搾取であるという側面を忘れてはならない。労働によって階級が作られ、資本主義と国家というシステムが維持されている。労働によって人々の「暇」な時間が削られると、階級を覆すために運動を起こすことも難しくなる。労働というシステムの導入は、権力の不平等を生み出すのだ。
強いて言えば、是認するにせよ否認するにせよ、「労働」が一つのシステムであるという意識があるところに、「中国らしさ」を感じるのかもしれない。