閑閑空間
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「ノー・オーディナリー・マン」~ドキュメンタリー映画としての責任

2025年5月(元記事①を改稿)

 2023年の関西クィア映画祭で「ノー・オーディナリー・マン」(原題:「No Ordinary Man」、監督:アシュリン・チンイー(Aisling Chin-Yee)、チェイス・ジョイント(Chase Joynt)、2020年、カナダ)という映画を観た。とても印象に残った作品で、この年のクィア映画祭で二回観た後、2024年の「トランスジェンダー映画祭」でもこの映画を観た。

 一言で言えば、ビリー・ティプトンという過去の人物に焦点を当てながら、現代社会のトランスジェンダー差別の実態と、それが生じてくる仕組みを描きながら、同時に、人をドキュメンタリー作品として仕立て上げることの権力性にも向き合った映画であると思う。

 この記事では、この映画の内容を紹介しながら、自分が考えたことを整理してみたい。

ビリー・ティプトンという人とこの映画

 「ノー・オーディナリー・マン」は、ビリー・ティプトンというジャズミュージシャンについてのドキュメンタリー映画である。ビリー・ティプトンは、1914年にアメリカのオクラホマで生まれ(オクラホマはさまざまな音楽が交差する街であった)、ジャズミュージシャンとして生涯を送った人で、1989年に亡くなった。ビリーは、生まれた時には女性として性を割り当てられたものの、19歳の頃から社会に男性とみなされる格好をし始め、その後は男性としての生き方を選択し、妻・子供を持ち、一生を終えた人である。

 生前、ビリーはこうした自分の生い立ちを隠しており、他人にもほとんど知られていなかった。しかし、ビリーが死を迎えた時、遺体からその経緯が明らかになり、スキャンダルとして(「自分の性を偽り続けた」とか「家族までもを騙し続けた」とかいう言葉で)メディアに取り上げられ、人々の知るところとなった。

 その後、ビリーの生涯は、ダイアンという人が「Suits Me: The Double Life of Billy Tipton」という伝記にまとめることとなった。しかし、この著作では、ビリーは「女性」でありながらも、「男装」し周りを「騙す」ことで男性が支配していたジャズの世界で活躍した人という方向で描かれていた。この著作は、トランスジェンダーへの偏見に溢れたものとして映画の中では厳しく批判されている。

 本作は、ビリーを「トランス男性」としてとらえ、トランスへの理解が今よりはるかに厳しい当時にあって、自分の力だけで生き抜いてきたビリーをリスペクトしながら、現代社会においてトランスジェンダーが生きていく上で障害となる問題について考えていく作品とまとめられる。しかし同時に、トランスジェンダーの暗い現状や未来だけを想像させる作品ではなく、厳しい状況の中での連帯が描かれ、現代社会を生き抜くマイノリティをエンパワーメントする作品にもなっているクィア映画祭の大阪会場での感想で、「ケア的」な作品という話が挙がっていたが、まさにその通りだと思う。

本作の構成

 本作は「故人を題材とするドキュメンタリー作品」ではあるものの、単に「誰かがビリーを演じてその生涯の再現を試みる」という形は取っていない。むしろ非常に入り組んだ構成が採られており、なおかつ、映画を観ていると、それがビリーのドキュメンタリーを撮る上で考え抜かれたものであることが分かる。以下が主な構成パートである(★が主要な部分)。

 このうち、「ビリー役のオーディション風景」のパートは本作最大の特徴と言える。このオーディションに参加しているのは、みなトランス男性当事者であり、ビリーは白人だが、黒人のトランスジェンダーもオーディションに参加している。

これはもともとトランス男性に限定したオーディション。参加者の中には、もともと演技が好きだったものの、トランス後は機会に恵まれなかったと言っている人もいて、業界内のトランス差別を示唆している。

 オーディション参加者は、制作陣の求めに応じて、ビリーの言葉を自分なりに演じていく。制作陣と対話し、シチュエーションを確認しながら、自分がビリーの身になり切って演じることで、新たな発見や解釈が生まれていく様子は、それ自体が一つの人間ドラマとして非常に見ごたえがある。

 たとえば、ビリーが自分と似た境遇の人に初めて出会うシーン。ここで「自分は孤独ではない」とビリーが気が付いたとされるが、オーディション参加者は、こうした場合の現代のトランス男性の反応は想像できるけれども、1950年代の社会状況下で、ビリーがどのように反応するのかは想像を絶する、というコメントを残している。さらにこのシーンでは、ビリーが出会う相手のことを(役者が)知らない状態と知った状態とで、二回演技をしてもらうことで、当事者としての役者の実感の伴なった驚愕を鮮やかに描き出している。

 また、オーディション会場自体が、似た境遇の人が集まる交流の場所として、心地よい空間になっていることも見逃せない。本作の内容についてオーディション参加者が意見交換しているシーンや、オーディション参加者が制作陣の中に昔自分が影響を受けた人を発見して、涙するシーンもある。

 本作のもう一つの軸となるのが、ビリー・ジュニア(ビリーの子供)へのインタビューのシーンである。この映画のもう一人の主人公はビリー・ジュニアであるとも言えよう。

 ビリーが死後にメディアに盛んに取り上げられた際、ビリーの妻やビリー・ジュニアへのインタビューも行われていた。本作では、ビリー・ジュニアの過去映像と、現在の時間軸でのビリー・ジュニアへのインタビューが重ねて写し出されていく。当時から変わらないのは、ビリー・ジュニアが一貫して、父としてのビリーの愛に感謝を述べていること。ビリー・ジュニアは、父のことを知った時には衝撃を受けたが、よくよく考えてみると、何も変わらないのだと思った、父は自分を愛してくれていた、といった言葉を当時から残している。

 ビリー・ジュニアは、長年の間、父のような人は他にはいないと思っていたらしく、ずっと孤独のなかで父のことを語り続けてきた人である。そうした状況下で、父のことを知っている人、覚えている人がいることに、「ここ数年は驚きの連続だ」とも語っている。

 こうした背景があるビリー・ジュニアに対して、映画の制作陣やオーディション参加者は、「ビリー・ジュニアに、ビリーのことを誇りに思ってほしい」という希望を語る。そこでビリー・ジュニアに伝えられた言葉は、ビリーはトランスジェンダーにとってヒーローであるということ、カウンセラーもホルモン治療も周囲の人の理解もない時代に、自分の力で人生を生き抜き、人生を謳歌した人だと思う、ということが伝えられる。この時のビリー・ジュニアの、警戒心が解かれ、同志を見つけた時の表情は非常に印象的である。

本作で描かれるトランスジェンダー差別

 本作では、十名ほどのトランスジェンダーへのインタビューが代わる代わる何度も挿入され、本作全体のナレーションのような役割を果たしている。このインタビューで語られたテーマを軸に、他の映像が組み合わされながら映画自体が進行していく形になっている。本作の優れた点は、次々と移り行くテーマが、ほどよく有機的に繋がって展開し、消化しやすい組み立てになっていること。かといって、いわゆる「論理」的な、理屈っぽい説明が繰り広げられるわけではなく、実感のこもった言葉や短いキーワードがしっかり強調され、説明的すぎてつまらないというわけでもない。テーマや構成は言うまでもないが、こうした話の組み立て方の塩梅も、本作の絶妙な点の一つだと思う。

 さて、以下、このトランスジェンダーへのインタビューで取り上げられているテーマを見ていく。

トランスジェンダーとメディア

 ビリーは、死後「実は女性だった」「周囲を騙してきた」「50年以上性別を偽った」といった報道のされ方をした。トランスジェンダーに対するこうした報道の仕方は、ずっと繰り返されてきたものであると本作で指摘されている。

 マジョリティーが理解できないものに出会ったとき、勝手に物語を作り、理解しやすいものに変えて受容してしまう。その時、エンターテインメントとしての消費の対象になることもしばしばある。その結果、「トランスは嘘つき」だという理解が繰り返し再生産され、トランスへの暴力が正当化されていく。ビリーの物語は、まさにこうした経過を辿ったものと見ることができる。

トランスジェンダーと死

 トランスとしてどのような死を迎えるのか、という問題もこの作品の主要なテーマである。ビリーは、胸を小さく見せるためのサポーター(本人は肋骨の怪我のためと言っていたらしい)など、見つかると嫌なものは死ぬ前に片付けたのかもしれないという話が紹介されていた。しかし、ビリーの死後の扱われ方は、おそらくビリー自身の望んだようなものではなかった。このことについて、あるトランスジェンダーは、人は死の瞬間に「自分で自分の人生は決められない」ということを悟るのではないか、と述べていた。

 京都会場のトークショーでは、トランスの死後の扱われ方に関連して、死後に「戒名を付けられる」例を吉野靫さんが挙げていた。戒名は、男性・女性で分けられることが多く、死後に自分の望んでいない名前を付けられる可能性は大いにある。また、これは、歴史研究において過去の人の代名詞をどう扱うかという問題とも関わる。その人の性自認が分からない場合、性別化された代名詞を使うと、その人の尊厳を傷つけ得るということだ。

トランス差別と黒人差別

 作中で、白人のトランスジェンダーは、自分が受けてきた治療を有色人種は受けにくい傾向にあると指摘している。その背景には、過去の運動・権利・医療などが白人中心であったことがある。本作ではこの点にも自覚的であり、白人であるビリー役のオーディションに黒人の参加者がいたり、トランスジェンダーへのインタビューでも黒人が多く採用されている。

 また、そもそもトランス差別と黒人差別に共通点があり、両者が苦しみを共有し、連帯していく方向性も示されている。具体例として示されるのは、「ボーイズ・ドント・クライ」という実話を元にした映画である。この映画は、トランス男性を初めて明確に描いた映画とされ、主人公であるトランス男性のブランドン・テーナは、最後には殺されてしまう。本作では、「ボーイズ・ドント・クライ」と、白人至上主義者によって黒人が殺された実在の事件が重ねられて語られてる。どちらも、属性や人種を理由に排除する、ヘイトクライムであると考えられている事件であり、これらの事件を見て、黒人のトランスジェンダーは、「自分のことを明らかにしたら、殺されるんだと思った」とコメントしている。

この意味で、「ボーイズ・ドント・クライ」は、「当事者にとってケア的な作品ではない」と言える。

 また、黒人のジャズミュージシャンのなかに、一人ビリーが混じって演奏している写真が使われていたが、これはこうした連帯の可能性を象徴的に示したものと受け取ることもできる。

性自認と性的指向

 ビリーの死後、ビリーの妻は、「レズビアン」だと決めつけられてメディアに取り上げられることがあった(そしてその子供のビリー・ジュニアはゲイだ、という偏見を持たれることもあった)。トランスジェンダーとは、性自認、つまり自分の性をどのように自己認識するか、という点に関わる事象。一方、ゲイ、レズビアンというのは、自分の性的指向、どういう相手に性的魅力を覚えるか、に関わるもの。両者はそれぞれ異なる地平のものを対象にする言葉だが、男女二元論的に考える人にはなかなか理解されない。その結果、ビリーのように、トランス男性とブッチレズビアン(男性的な装い・振る舞いをするレズビアン)が混同されることがある。

 そもそも、こういった言葉だけで、その人の性自認や性的指向が一義的に理解できるわけでもない。性のあり方は人の数だけあるということ、また自分がどのカテゴリーなのかという認識も時の流れとともに変化しうるということも、当たり前の前提として受け止められなければならない。そして、ビリーは、こうしたカテゴリーや概念が浸透する以前の時代の人であり、現代の私達が考えるようには自分の性を考えなかったはずである。本作で、このことを指摘した人は、ビリーは「真の人生を生きた人」ではないか、と述べている。つまり、既存のカテゴリーに自分を当てはめて生きるのではなく、自分で自分の生き方を追求した人だ、ということだ。

トランスジェンダーと医学

 ビリーは、ビリー・ジュニアに最期を看取られた。ビリー・ジュニアによれば、ビリーは衰弱してからも、ずっと病院に行きたがらず、そのまま家で息を引き取った。その背景には、ビリーのような生き方への理解が乏しかった80~90年代までは、(体が特殊なので、などと理由をつけられて)病院が診療を拒否していたことが挙げられる。また、自分の身体のことが露見することを恐れて、病院に行きづらいという事情もあったかもしれない。ビリーは、自分の望む治療を受けられず、怖い思いをし続けていただろう。これはまったく過去の出来事ではなく、現代でもミスジェンダリングやアウティングを恐れて、病院に気軽に行けないというトランスジェンダーは多い。

 映画の中では、その状況を変えるために、つまり老後の自分が安心して病院に行くことができるように、自ら活動家になったと語るトランスジェンダーもいる。

トランスジェンダーとステージ

 ビリーは、ジャズミュージシャンとしてステージに立っていた人である。ここから、トランスジェンダーがしばしば舞台上や芸能界などに居場所を求めてきたことも指摘される。「ステージの上に立つ」という行為は、他人からどう見られるか自分で決めること、自分の姿を自分で作り上げることでもある。そこは普通の枠から外れることが許容される場所であり、社会の中にいづらさを感じる人々にとってしばしば逃げ場となってきた。

 また、作中では、「ジャズ」は即興演奏でその場を作り上げるものであり、このことが、トランスジェンダーがその場その場で自分の身体をアドリブで乗りこなしたことと重ねて理解できる、と指摘する人もいた。これは、古怒田聖人/いりや「ままならない身体―ジェンダークィアのボクが生きてきたこの身体について」(『現代思想』49-13, 2021)が、自己のジェンダー表現とそれに対する他者の眼差しが出会う契機を「セッション」という言葉で捉えていることを想起させる。

ドキュメンタリー作品を撮るということ

 最後に、そもそも「ドキュメンタリー映画を作る」ことをどう考えればよいのか、という問題について考えてみたい。以上で見てきたように、本作の焦点はあくまでトランスジェンダーと社会の関わりに当てられている。しかし、本作を注意深く見ていくと、「映画を撮る」という行為そのものの権力性に向き合うような印象的なシーンが含まれていることに気が付く。

 本作は故人であるビリーの人生に焦点を当てるものである。ビリーの場合、生前に自分のアイデンティティについて特に言及していないため(先述の通り、そもそもトランスという概念が広まる以前の人である)、果たしてこの主題の映画の題材としてビリーを選ぶということが、本人の望み通りなのかは、結局は分からないことだ。

この問題に関連して、京都での上映の後のトークショーで、吉野靫さんは、ビリーがトランス男性だったのかは結局は分からないが、男性としての自己を社会に提示して生き続けて死を迎えたのだから、われわれはビリーを男性として記憶に留めるべきだろう、と発言されていた。また、作中では「ピアノのためだけに、自分の望まない性を選ばないだろう(よってビリーは男性という性を望んでいたはずだ)」という推測も出てくるが、これもそうとは限らない(音楽のために性を選んだっていい)、ということを吉野さんは述べていた。どちらも、慎重かつ誠実な態度だと思う。

 そもそも、死んだ人をドキュメンタリー作品として仕立て上げるという行為(歴史記述と重なる)には、自ずから絶対的な権力関係が生じている。「死人に口なし」という言葉の通り、そこに事実誤認や明らかにされたくない事実が含まれていたとしても、死者は抗議の表明をすることができないからだ。そこには絶対的な暴力性があり、しかしそれでも歴史を語るとしたら、その意義はどこにあるのだろうか。

 作中では、歴史を語ることの意義について、以下のように語られる。人は、歴史の中に、自分と似ているところを発見し、「自分のルーツ」を発見することができる。つまり、ビリーをどう考えるかということは、自分の歴史を探すことでもある。そして、ある人は男性支配の中で女性であることを隠して生きて成功した人として、またある人はブッチレズビアンとして、またある人はトランス男性として、ビリーの人生を見て、それぞれが自分の生き方と重ね合わせて、勇気をもらうのだと語られている。

 このシーンは、さりげなく挿し込まれていたが、この映画自体を相対化していくような意味合いを持っている。ビリーを「男装した女性」として描いたのはダイアンの伝記であり、これは本作の中で厳しく批判される。しかし、アイデンティティを言明していない故人を、後から「決めつけて」描いたという非対称性を抱えている点において、ダイアンの伝記も本作も実は同じ位置にある。ここは、このことを自己言及したシーンとして見ることができる。

 では、ダイアンの伝記と本作とを分けるものは何なのか。ダイアンの伝記は、トランスへの差別的な見解に溢れている点で論外であり、故人であるビリーに対して、敬意をもって、その人権を脅かさない形で扱っていたとは言い難いものであった。一方、本作は、故人を描くことの非対称性に注意を払いながら、マイノリティをエンパワメントし、解放的な社会を実現するという意志を持って作られたものである。エンタメの道具にしたダイアンとは、全く別物と言えよう。

 本作では、歴史を語る意義として、歴史の中で弱者は消されてしまうということが挙げられている。われわれの現在の文化を支えてきたもの、それを作り上げてきた存在として、女性、有色人種、トランスジェンダーなどが実際にいたということは、これまで歴史から抹消されてきた。こうした歴史に再び光を当てることは、誰にとっても大きな意義があるはずだ。作中では、こうした歴史を抹消しては、われわれはルーツを失い、ただ現在だけに縋りつく根無し草になってしまうという指摘もなされている。

 さて、死者を撮影する際の権力関係の問題は、撮影対象が死者であろうとなかろうと生じてくる。つまり、「撮影する側」と「撮影される側」の権力関係の問題である。本作は、撮る側と撮られる側の権力構造に敏感であろうとし、その非対称性を示すシーンが多いことも特徴に挙げられる。

 たとえば、オーディションのシーンや、トランスジェンダーのインタビューシーンでは、インタビューされる対象の人だけではなく、撮影側のスタッフやその撮影機材の全体がしばしば映し出される。ものものしい機械と多くの人が一人を取り囲んでいる映像を実際に見ると、一人の人間をインタビューするとはどういうことなのか、その強烈な権力関係を、観客(また制作側)に客観視する視点が与えられる。

 この映像によって、芸術作品を作るために、この作品自体が一人の人間を題材として搾取している状況がよく表現されている。しかも、題材とされる人は、社会の中で弱者の立場に置かれてきたトランスジェンダーたちである。撮影風景を客観視する映像を見せることによって、こうした本作品の立ち位置を自ら示しているようにも思う。

 この映画の冒頭では、以下の言葉が掲げられている。

James Baldwin — 'The purpose of art is to lay bare the questions that have been hidden by the answers.'

 ジェイムズ・ボールドウィンとは、黒人の同性愛者として、公民権運動などに関わった人。この言葉の通り、本作は、「ビリーは○○だった」などといった従来与えられた答えの中で、認識不可能なものにされていた「問い」を暴き出す作品であった、と言えるだろう。

注釈